日本の歴史年表(日本史)

日本の歴史年表(日本史)を歴史上人物と友に紹介します。

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日本の歴史年表(日本史)

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日本の歴史年表(日本史)

日本の歴史年表(日本史)【室町時代】A
日本の歴史年表(日本史)【室町時代】A

■1378年
室町に花の御所が作られる

花の御所(はなのごしょ)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

花の御所(はなのごしょ)は、現在の京都市上京区烏丸今出川北西一帯の地域にあった室町幕府の足利将軍家の邸宅の通称である。現在の同志社大学今出川校地の烏丸通を挟んで向かい側の場所にある寒梅館に位置する。

概要
当時この地域が「室町」と言われていたことから、室町殿、室町第とも呼ばれ、「室町時代」というのもここから採られている。室町御所とも呼ばれていたが、これも築造した足利義満の権威が天皇に匹敵するものであったためと言える。

南北朝時代、後醍醐天皇と対立して北朝を後見するため、京都に武家政権を開いた足利尊氏は二条高倉に住み、2代将軍の足利義詮は三条坊門に住んでいた。3代将軍となった足利義満は1378年(天授4年/永和4年)に京都北小路室町、室町通りの正面の崇光上皇の仙洞御所や菊亭公直邸の焼失跡地に造営をはじめ、1379年には寝殿が作られ、1381年に完成すると、それまでの三条坊門第から移住する。北小路は土御門内裏に近く、敷地だけでも御所の倍にも及ぶ規模の新邸は公家社会に対する義満のデモンストレーションを兼ねている。

庭内には鴨川から水を引き、各地の守護大名から献上された四季折々の花木を配置したと伝わり、「花の御所」とよばれた。義満はここに後円融天皇や関白二条師嗣などを招いて詩歌や蹴鞠の会などを催した。1394年に将軍職を息子の足利義持に譲ると、義満はここから新築した北山第(現鹿苑寺)へ移る。義満と不和であったとされる義持は義満の死後に室町第を離れるが、6代将軍の足利義教が住むなど長く将軍の邸宅であった。8代将軍足利義政の頃に応仁の乱の戦火で焼失する。

その後、室町殿は何度か再建されるが、将軍権力の衰退を現すかのように昔日の面影がないほど小規模なものだった。



■1392年
足利義満が南北朝を統一する


■1397年
金閣が作られる


鹿苑寺(金閣)(ろくおんじ・きんかく)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

世界遺産
鹿苑寺(ろくおんじ)は、京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺院。寺名は足利義満の法名にちなむ。通称金閣寺(きんかくじ)、山号は北山(ほくざん)。1994年に古都京都の文化財として世界遺産に登録された。中心となる建築物である舎利殿を「金閣」、寺院全体を「金閣寺」と通称する。

歴史
この地には、鎌倉時代の元仁元年(1224年)に藤原公経(西園寺公経)が西園寺を建立し、あわせて山荘を営んでいた。これらは公経の子孫である西園寺家が代々所有していた。同氏は代々朝廷と鎌倉幕府との連絡役である関東申次を務めていたが、幕府滅亡直後に当主・西園寺公宗が後醍醐天皇を西園寺に招待して暗殺しようと企てたという容疑がかけられて処刑されてしまい、西園寺家の膨大な所領と資産は没収されてしまう。このため、西園寺も次第に修理が及ばず荒れていった。

1397年(応永4年)、足利義満が河内国の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によって一新した。この義満の北山山荘は当時「北山殿」、または「北山第」と呼ばれた。邸宅とは言え、その規模は御所に匹敵し、政治中枢の全てが集約された。義満はここで一切の政務を行った。その後、義満は征夷大将軍を子の義持に譲ったが、実権は手放さず、北山殿にあって政務を見た。義満の死後、義持によって北山殿は舎利殿を残して解体され、禅寺とされ鹿苑寺と名付けられた。夢窓疎石を勧請開山(名目上の開山)としている。

応仁の乱では、西軍の陣となり建築物の多くが焼失した。


金閣(舎利殿)

焼失する前の金閣通称「金閣寺」の由来となった金閣は、漆地に金箔を押した三層の建物で正式には舎利殿と称する(金箔を貼るのは二・三層のみ)。初層・二層・三層のそれぞれに異なる様式を採用した特異な建築である。初層は寝殿造風で「法水院」(ほっすいいん)と称し、中央に宝冠釈迦如来像、向かって左に法体の足利義満像を安置する(安置仏像を「阿弥陀如来」とする資料もある)。二層は住宅風(武家造)の「潮音洞」で、岩屋観音像と四天王像を安置する。三層は禅宗様の仏殿風で仏舎利を安置し「究竟頂」(くっきょうちょう)と称する。屋根はこけら葺きで上には鳳凰が飾られている。 鹿苑寺金閣は第二次大戦前から(旧)国宝に指定されていたが、1950年(昭和25年)、学僧・林承賢(当時21歳)の放火により炎上(金閣寺放火事件)。林は寺の裏山で自殺を図った。建物は全焼し、国宝の足利義満像も焼失した。なお、屋上にあった鳳凰は火災以前に取り外されていたため焼失をまぬがれ、現存する。この事件は三島由紀夫の小説『金閣寺』、水上勉の小説『五番町夕霧楼』・『金閣炎上』の題材にもなっている。

現存する金閣は1955年(昭和30年)に旧状どおり再建されたものである。

なお、上層の天井板は「楠天井の一枚板」であったと伝えられるが、焼失のため、現在となっては真偽は定かでない。後に8代将軍・足利義政は祖父・義満にならい、銀閣を建てた。

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日本の歴史年表(日本史)【室町時代】@
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■1334年
後醍醐天皇が建武の新政を始める。

建武の新政(けんむのしんせい)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

建武の新政(けんむのしんせい)は、鎌倉幕府滅亡後の1333年(元弘3年/正慶2年)6月に後醍醐天皇が親政(天皇がみずから行う政治)を開始した事により成立した政権である。名は、翌1334年に定められた「建武」の元号に由来する。第二次世界大戦前は建武の中興と表記されていた。近年の歴史学では「建武政権」という表記も多い。

後醍醐天皇は天皇親政によって朝廷の政治を復権しようとしたが、武士層を中心とする不満を招き、1336年(建武3年)、源氏の嫡流を汲む足利尊氏が離反し、政権は瓦解した。


■1336年
南北朝の対立が深まる


■1338年
足利尊氏が征夷大将軍に任じられ室町幕府を開く

足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。足利幕府(室町幕府)の初代征夷大将軍。正式な名は源 尊氏(みなもとの たかうじ)。

河内源氏の名門足利氏に生まれ嫡子となる。始めは、執権北条高時の諱を賜り「高氏」と名乗って鎌倉幕府に仕えるが、後醍醐天皇の綸旨を受けて倒幕を果たす。この功績により天皇の名(尊治)の諱を賜って「尊氏」と改名する。後醍醐天皇の執った建武の新政は武士の支持を得られず、これに蜂起した中先代の乱を鎮めた後は、鎌倉に留まり幕府設立の動きを見せる。これにより朝廷から討伐令を受け、幾多の戦いを経て大覚寺統を京から吉野に追い、持明院統から征夷大将軍に任じられ、後の室町幕府を開いた。

長く逆賊と評されたが、吉野で崩御した後醍醐天皇の慰霊の為、天龍寺の造営などを行っている。

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