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<feed version="0.3" xml:lang="ja" xmlns="http://purl.org/atom/ns#" xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"><title>日本の歴史年表(日本史)</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://nihonnorekishi.il-o-l.com/" /><modified>2007-05-04T12:01:50+09:00</modified><tagline>日本の歴史。日本史年表と友に歴史を振り返る。</tagline><generator url="http://jugem.cc/">JUGEM</generator><entry><title>日本の歴史年表(日本史)【室町時代】?</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://nihonnorekishi.il-o-l.com/?eid=520142" /><id>http://nihonnorekishi.il-o-l.com/?eid=520142</id><issued>2007-05-01T21:34:34+09:00</issued><modified>2007-05-01T11:10:36Z</modified><created>2007-05-01T12:34:34Z</created><summary>日本の歴史年表(日本史)【室町時代】?

■1378年
室町に花の御所が作られる

花の御所（はなのごしょ）
出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』

花の御所（はなのごしょ）は、現在の京都市上京区烏丸今出川北西一帯の地域にあった室町幕府の足利将軍家の邸宅の通称...</summary><author><name>nihonnorekishi</name></author><dc:subject>日本の歴史年表(日本史)【室町時代】</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[日本の歴史年表(日本史)【室町時代】?<br />
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■1378年<br />
室町に花の御所が作られる<br />
<br />
花の御所（はなのごしょ）<br />
出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』<br />
<br />
花の御所（はなのごしょ）は、現在の京都市上京区烏丸今出川北西一帯の地域にあった室町幕府の足利将軍家の邸宅の通称である。現在の同志社大学今出川校地の烏丸通を挟んで向かい側の場所にある寒梅館に位置する。<br />
<br />
概要<br />
当時この地域が「室町」と言われていたことから、室町殿、室町第とも呼ばれ、「室町時代」というのもここから採られている。室町御所とも呼ばれていたが、これも築造した足利義満の権威が天皇に匹敵するものであったためと言える。<br />
<br />
南北朝時代、後醍醐天皇と対立して北朝を後見するため、京都に武家政権を開いた足利尊氏は二条高倉に住み、2代将軍の足利義詮は三条坊門に住んでいた。3代将軍となった足利義満は1378年（天授4年/永和4年）に京都北小路室町、室町通りの正面の崇光上皇の仙洞御所や菊亭公直邸の焼失跡地に造営をはじめ、1379年には寝殿が作られ、1381年に完成すると、それまでの三条坊門第から移住する。北小路は土御門内裏に近く、敷地だけでも御所の倍にも及ぶ規模の新邸は公家社会に対する義満のデモンストレーションを兼ねている。<br />
<br />
庭内には鴨川から水を引き、各地の守護大名から献上された四季折々の花木を配置したと伝わり、「花の御所」とよばれた。義満はここに後円融天皇や関白二条師嗣などを招いて詩歌や蹴鞠の会などを催した。1394年に将軍職を息子の足利義持に譲ると、義満はここから新築した北山第（現鹿苑寺）へ移る。義満と不和であったとされる義持は義満の死後に室町第を離れるが、6代将軍の足利義教が住むなど長く将軍の邸宅であった。8代将軍足利義政の頃に応仁の乱の戦火で焼失する。<br />
<br />
その後、室町殿は何度か再建されるが、将軍権力の衰退を現すかのように昔日の面影がないほど小規模なものだった。<br />
<br />
<br />
<br />
■1392年<br />
足利義満が南北朝を統一する<br />
<br />
<br />
■1397年<br />
金閣が作られる<br />
<br />
<br />
鹿苑寺（金閣）（ろくおんじ・きんかく）<br />
出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』<br />
<br />
世界遺産 <br />
鹿苑寺（ろくおんじ）は、京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺院。寺名は足利義満の法名にちなむ。通称金閣寺（きんかくじ）、山号は北山（ほくざん）。1994年に古都京都の文化財として世界遺産に登録された。中心となる建築物である舎利殿を「金閣」、寺院全体を「金閣寺」と通称する。<br />
<br />
歴史<br />
この地には、鎌倉時代の元仁元年（1224年）に藤原公経（西園寺公経）が西園寺を建立し、あわせて山荘を営んでいた。これらは公経の子孫である西園寺家が代々所有していた。同氏は代々朝廷と鎌倉幕府との連絡役である関東申次を務めていたが、幕府滅亡直後に当主・西園寺公宗が後醍醐天皇を西園寺に招待して暗殺しようと企てたという容疑がかけられて処刑されてしまい、西園寺家の膨大な所領と資産は没収されてしまう。このため、西園寺も次第に修理が及ばず荒れていった。<br />
<br />
1397年（応永4年）、足利義満が河内国の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によって一新した。この義満の北山山荘は当時「北山殿」、または「北山第」と呼ばれた。邸宅とは言え、その規模は御所に匹敵し、政治中枢の全てが集約された。義満はここで一切の政務を行った。その後、義満は征夷大将軍を子の義持に譲ったが、実権は手放さず、北山殿にあって政務を見た。義満の死後、義持によって北山殿は舎利殿を残して解体され、禅寺とされ鹿苑寺と名付けられた。夢窓疎石を勧請開山（名目上の開山）としている。<br />
<br />
応仁の乱では、西軍の陣となり建築物の多くが焼失した。<br />
<br />
<br />
金閣（舎利殿）<br />
 <br />
焼失する前の金閣通称「金閣寺」の由来となった金閣は、漆地に金箔を押した三層の建物で正式には舎利殿と称する（金箔を貼るのは二・三層のみ）。初層・二層・三層のそれぞれに異なる様式を採用した特異な建築である。初層は寝殿造風で「法水院」（ほっすいいん）と称し、中央に宝冠釈迦如来像、向かって左に法体の足利義満像を安置する（安置仏像を「阿弥陀如来」とする資料もある）。二層は住宅風（武家造）の「潮音洞」で、岩屋観音像と四天王像を安置する。三層は禅宗様の仏殿風で仏舎利を安置し「究竟頂」（くっきょうちょう）と称する。屋根はこけら葺きで上には鳳凰が飾られている。 鹿苑寺金閣は第二次大戦前から（旧）国宝に指定されていたが、1950年（昭和25年）、学僧・林承賢（当時21歳）の放火により炎上（金閣寺放火事件）。林は寺の裏山で自殺を図った。建物は全焼し、国宝の足利義満像も焼失した。なお、屋上にあった鳳凰は火災以前に取り外されていたため焼失をまぬがれ、現存する。この事件は三島由紀夫の小説『金閣寺』、水上勉の小説『五番町夕霧楼』・『金閣炎上』の題材にもなっている。<br />
<br />
現存する金閣は1955年（昭和30年）に旧状どおり再建されたものである。<br />
<br />
なお、上層の天井板は「楠天井の一枚板」であったと伝えられるが、焼失のため、現在となっては真偽は定かでない。後に8代将軍・足利義政は祖父・義満にならい、銀閣を建てた。<br />
<br />
]]></content></entry><entry><title>日本の歴史年表(日本史)【室町時代】?</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://nihonnorekishi.il-o-l.com/?eid=498852" /><id>http://nihonnorekishi.il-o-l.com/?eid=498852</id><issued>2007-03-19T15:59:49+09:00</issued><modified>2007-03-19T06:59:51Z</modified><created>2007-03-19T06:59:49Z</created><summary>日本の歴史年表(日本史)【室町時代】?

■1334年
後醍醐天皇が建武の新政を始める。

建武の新政（けんむのしんせい）
出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』
 
建武の新政（けんむのしんせい）は、鎌倉幕府滅亡後の1333年（元弘3年/正慶2年）6月に後醍醐天皇が親...</summary><author><name>nihonnorekishi</name></author><dc:subject>日本の歴史年表(日本史)【室町時代】</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[日本の歴史年表(日本史)【室町時代】?<br />
<br />
■1334年<br />
後醍醐天皇が建武の新政を始める。<br />
<br />
建武の新政（けんむのしんせい）<br />
出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』<br />
 <br />
建武の新政（けんむのしんせい）は、鎌倉幕府滅亡後の1333年（元弘3年/正慶2年）6月に後醍醐天皇が親政（天皇がみずから行う政治）を開始した事により成立した政権である。名は、翌1334年に定められた「建武」の元号に由来する。第二次世界大戦前は建武の中興と表記されていた。近年の歴史学では「建武政権」という表記も多い。<br />
<br />
後醍醐天皇は天皇親政によって朝廷の政治を復権しようとしたが、武士層を中心とする不満を招き、1336年（建武3年）、源氏の嫡流を汲む足利尊氏が離反し、政権は瓦解した。<br />
<br />
<br />
■1336年<br />
南北朝の対立が深まる<br />
<br />
<br />
■1338年<br />
足利尊氏が征夷大将軍に任じられ室町幕府を開く<br />
<br />
足利 尊氏（あしかが たかうじ）は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。足利幕府（室町幕府）の初代征夷大将軍。正式な名は源 尊氏（みなもとの　たかうじ）。<br />
<br />
河内源氏の名門足利氏に生まれ嫡子となる。始めは、執権北条高時の諱を賜り「高氏」と名乗って鎌倉幕府に仕えるが、後醍醐天皇の綸旨を受けて倒幕を果たす。この功績により天皇の名（尊治）の諱を賜って「尊氏」と改名する。後醍醐天皇の執った建武の新政は武士の支持を得られず、これに蜂起した中先代の乱を鎮めた後は、鎌倉に留まり幕府設立の動きを見せる。これにより朝廷から討伐令を受け、幾多の戦いを経て大覚寺統を京から吉野に追い、持明院統から征夷大将軍に任じられ、後の室町幕府を開いた。<br />
<br />
長く逆賊と評されたが、吉野で崩御した後醍醐天皇の慰霊の為、天龍寺の造営などを行っている。<br />
<br />
]]></content></entry><entry><title>日本の歴史年表(日本史)【鎌倉時代】?</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://nihonnorekishi.il-o-l.com/?eid=489483" /><id>http://nihonnorekishi.il-o-l.com/?eid=489483</id><issued>2007-03-13T12:13:18+09:00</issued><modified>2007-03-13T03:13:18Z</modified><created>2007-03-13T03:13:18Z</created><summary>日本の歴史年表(日本史)【鎌倉時代】?

■1297年
永仁の徳政令（えいにんのとくせいれい）を出す


永仁の徳政令
出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』

永仁の徳政令（えいにんのとくせいれい）は、1297年（永仁5）年に鎌倉幕府の9代執権北条貞時が発令した、日本...</summary><author><name>nihonnorekishi</name></author><dc:subject>日本の歴史年表(日本史)【鎌倉時代】</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[日本の歴史年表(日本史)【鎌倉時代】?<br />
<br />
■1297年<br />
永仁の徳政令（えいにんのとくせいれい）を出す<br />
<br />
<br />
永仁の徳政令<br />
出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』<br />
<br />
永仁の徳政令（えいにんのとくせいれい）は、1297年（永仁5）年に鎌倉幕府の9代執権北条貞時が発令した、日本で最初の徳政令。元寇での戦役や異国警護の負担から没落した無足御家人の借入地や沽却地を無償で取り戻すことを目的に発令。正確な条文は不明だが、現在では3か条が知られる。<br />
<br />
永仁徳政令以前にも類似した政策は行われており、弘安7年（1284年）3月に幕府は越訴に関する訴訟を不受理とする法令を発令し、翌永仁6年には撤回している。<br />
<br />
歴史的評価は低く、非御家人層の負担による御家人救済政策で、経済・社会的混乱を及ぼしたとする否定的評価がなされる傾向にある。<br />
<br />
<br />
徳政令の概要<br />
主な内容として、<br />
（1）越訴（裁判で敗訴した者の再審請求）の停止。<br />
（2-a）御家人所領の売買及び質入れの禁止。<br />
（2-b）既に売却・質流れした所領は元の領主が領有せよ。ただし幕府が正式に譲渡・売却を認めた土地や領有後20年を経過した土地は返却せずにそのまま領有を続けよ。<br />
（2-c）非御家人・凡下（武士以外の庶民・農民や商工業者）の買得地は年限に関係なく元の領主が領有せよ。<br />
（3）債権債務の争いに関する訴訟は受理しない。<br />
と定めたが、（1）と（2-a）は翌年に廃止された。<br />
結局これは完全に失敗に終わり、御家人の経済的窮乏が好転するどころか、かえって困窮を推し進め、武士の幕府への忠誠心を薄れさせる結果となった。<br />
<br />
<br />
■1333年（いちみさんざん）<br />
<br />
鎌倉幕府が滅びる]]></content></entry><entry><title>日本の歴史年表(日本史)【鎌倉時代】?</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://nihonnorekishi.il-o-l.com/?eid=486294" /><id>http://nihonnorekishi.il-o-l.com/?eid=486294</id><issued>2007-03-07T18:34:06+09:00</issued><modified>2007-03-07T09:34:07Z</modified><created>2007-03-07T09:34:06Z</created><summary>日本の歴史年表(日本史)【鎌倉時代】?

■1232年
北条泰時が御成敗式目を制定する。

御成敗式目【ごせいばいしきもく】
出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』

御成敗式目（ごせいばいしきもく）とは、鎌倉時代に制定された武士政権のための法令のことである。貞...</summary><author><name>nihonnorekishi</name></author><dc:subject>日本の歴史年表(日本史)【鎌倉時代】</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[日本の歴史年表(日本史)【鎌倉時代】?<br />
<br />
■1232年<br />
北条泰時が御成敗式目を制定する。<br />
<br />
御成敗式目【ごせいばいしきもく】<br />
出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』<br />
<br />
御成敗式目（ごせいばいしきもく）とは、鎌倉時代に制定された武士政権のための法令のことである。貞永元年（1232年）に制定されたため、貞永式目（じょうえいしきもく）ともいう。執権であった北条泰時が中心になり、一門の長老北条時房を連署とし太田康連、斎藤浄円らの評定衆の一部との協議によって制定され、条文は51ヶ条ある。<br />
<br />
なお、江戸時代には庶民の習字手本として民間にも普及している。<br />
<br />
<br />
制定経緯<br />
制定当時、公家には、政治制度を明記した律令が存在していたが、武家を対象とした明確な法令がなかった。そこで、源頼朝以来の御家人に関わる慣習や明文化されていなかった取り決めを基に、土地などの財産や守護・地頭などの職務権限を明文化した。泰時が弟の重時に宛てた書状によれば公家法は漢文で記されており難解であるので、武士に分かりやすい文体の法律を作ったとある。この後に必要に応じて発布された法令は追加法と呼ばれる。室町幕府や戦国時代の家法にも強い影響を与え、広く武家法の基本となった。<br />
<br />
<br />
法の内容<br />
主たる条をここでは挙げておく。<br />
<br />
第三条　　諸国守護人奉行事 <br />
第七条　　所領之事 <br />
第八条　　土地占有之事 <br />
第九条　　謀反人事 <br />
第十条　　殺害刃傷罪科事 <br />
第十二条　悪口咎事 <br />
第十三条　殴人咎事 <br />
上記は全五十一条のほんの一部であるが、所有の規定が多いのが特徴で、とくに第八条は「権利の上に眠る者は、これを保護せず」という法原則で、他にも現在の日本の法律の原点とも言えるべきことが多く含まれていることが注目されるべき点である。<br />
<br />
<br />
■1274年<br />
文永の役がおこる<br />
■1281年<br />
弘安の役がおこる<br />
<br />
文永の役【ぶんえいのえき】<br />
弘安の役【こうあんのえき】<br />
<br />
元寇【げんこう】<br />
出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』 <br />
<br />
元寇（げんこう）とは、日本の鎌倉時代に、当時中国大陸を支配していた元によって二度にわたり行われた日本侵攻(遠征)の、日本側の呼称である。一度目を文永の役（ぶんえいのえき・1274年）、二度目を弘安の役（こうあんのえき・1281年）という。<br />
<br />
<br />
<br />
経緯<br />
<br />
外交交渉から侵攻まで<br />
1260年にモンゴル帝国のハーン（※）に即位した元の皇帝クビライ(フビライ)は、1268年（日本の文永五年・元の至元五年）に南宋攻略を開始する一方、既に服属していた朝鮮半島の高麗を通じて、1266年に日本に初めて通交を求める使者を送ろうとしていた。『元史日本伝』によるとこの使節を送るのは高麗人で元の官吏である趙彝の進言からとある。しかし高麗は航海の困難を理由に引き返し、クビライに対して日本への通使の不要を説いた。クビライはこれを却下し、再び高麗に命令し、1268年正月に大宰府へと到着、大宰府の少弐資能（武藤資能）は蒙古国書（日本側では牒状と記録）[1]、高麗王書状[2] を受け取り、鎌倉幕府へ送達する。<br />
※…「元」と言う国名が成立したのは1271年（同国の至元八年）のことである。<br />
<br />
日本では、京都の朝廷に代わり鎌倉幕府の北条氏が専制を行っており、7代執権の北条政村を連署の北条時宗らが補佐する体制が敷かれていた。1268年3月には時宗が8代執権に就任。幕府では関東申次の西園寺実氏に託して蒙古国書を外交権のある朝廷へ奏上する。朝廷では後嵯峨上皇、亀山天皇、関白の近衛基平を中心に返書に関する評定を行い、黙殺を決定する。幕府では諸国への異国警護、異国降伏の祈祷を行わせる。宗教界にも影響を与え、日蓮は『立正安国論』を幕府に上程して国難を主張する。<br />
<br />
同年には再び派遣された使節が日本へ上陸したが、これを黙殺した。これを見た高麗に反乱を起していた三別抄から、共同で元に対抗する軍事的援助を求める使者[3] が来たがこれも黙殺した。<br />
<br />
1271年9月、元使の趙良弼らが元への服属を命じる国書を携えてきた際には、幕府はこれを朝廷に進上した。朝廷は急いで伊勢に勅使を派遣し、神々に異国降伏を祈った。朝廷内部では返事を出すかどうかで論争されたが、幕府が返事を出す事に反対した事、朝廷内でも「元の要求に屈するべきではない」という強硬論が強かった事から、朝廷・幕府ともに国書を黙殺する事になった。クビライはその後も何度か日本に使者を出したが全て無視され、最終的に武力侵攻を決定する。<br />
<br />
『元史高麗伝』によると当初より三つの案が検討された。<br />
<br />
日本は島国で攻略が難しいので高麗に兵を置き国書により属国にする。この案では損害もでず、また高麗の統治強化および南宋と日本の分断が可能。 <br />
まず南宋を攻略し服属せしめた漢人を使って日本を攻略する。この案は多数の兵力を準備でき蒙人高官が支持していた。 <br />
高麗軍を使って東路より日本を攻略する。この案では兵力不足が懸念された。 <br />
高麗の（のちの忠烈王の）執拗な要請があり、蒙人の高官は兵力不足を懸念して南宋攻略を先にすべきと主張したが、高麗を経由する東路からの日本侵攻が決定されたという。<br />
<br />
クビライは高麗に命じて日本へ侵攻する艦船を作らせ、食糧などを供給した。この時の建造費は高麗が負担し、大小900艘と言われる船をわずか半年の突貫工事で完成させた。これらの動向を察知していた鎌倉幕府は、1272年に異国警護番役を設置し、鎮西奉行であった少弐氏（武藤氏）や大友氏に対して指揮を命じた。73年2月には南宋の襄陽を落とし、三別抄も平定する。<br />
<br />
<br />
<br />
文永の役 <br />
戦争: 元寇 <br />
年月日: 1274年10月3日〜21日 <br />
場所: 九州北部 <br />
結果: 日本側の勝利 <br />
交戦勢力 <br />
鎌倉幕府地頭・御家人ら 元・高麗連合軍 <br />
指揮官 <br />
少弐景資 征東都元帥忻都 <br />
戦力 <br />
5,000人 26,000人 <br />
損害 <br />
不明 13500人戦死・溺死 <br />
 <br />
'敵國降伏' - 筥崎宮伏敵門1274年10月（日本の文永11年・元の至元11年）に、忻都、金方慶らに率いられ、モンゴル人・漢人・女真人・高麗人など非戦闘員を含む3万人を乗せた船が朝鮮の月浦（現在の馬山）を出発した。<br />
<br />
10月5日に対馬、10月14日に壱岐を襲撃し、平戸鷹島の松浦党の本拠を全滅させ、壱岐守護代の平景隆を自害に追い込んだ。さらに『新元史』によれば、この時民衆を殺戮し、生き残った者の手の平に穴を開け、そこに革紐を通して船壁に吊るし見せしめにしたという。また元の将軍がこのときに捕虜とした子供男女200人を高麗王と王妃に献上したという記録が、高麗側に残っている。<br />
<br />
壱岐の状況が博多に伝わり、京都や鎌倉へ向けての急報が発せられる。日本側は少弐氏や大友氏をはじめ九州の御家人を中心として大宰府に集結しつつあった。<br />
<br />
元軍は10月19日には博多湾に現れ、湾西端の今津に停泊し一部兵力を上陸させた。10月20日（太陽暦では11月25日）、船団は東に進み百道原つづいて博多、箱崎に上陸した。<br />
<br />
日本の武士は、当初は名乗りをあげての一騎打ちや、少人数での先駆けを試みたため一方的に損害を受けたが、昼頃には集団戦術に対応、また増援の到着により反撃に転じた。『八幡大菩薩愚童訓』によると、百道原より3キロ東の赤坂にて菊池武房らの軍勢230名ほどの騎馬が徒歩の部隊だった2千前後の高麗軍を撃破した。『竹崎季長絵詞』によると竹崎季長が鳥飼潟から祖原へ追撃、上陸地点より５百メートル付近まで押し返した。さらに後続を待たず先駆けを試み窮地に陥ったところ白石通泰らが救援に駆けつけ矢戦となった。<br />
<br />
博多でも少弐景資が元将劉復亨を射倒すなど、海岸付近で激しい矢戦となり戦線は膠着し内陸への侵入を阻止した。『高麗史』によると、やがて日暮となり戦闘を解し、日本軍は大宰府に帰った。<br />
<br />
　一方、元軍は日本軍の抵抗のため海岸付近より前進できず、終日の激戦で矢が尽き、日本軍に大損害を与えたものの元の損害も大きく、軍の編成が崩れた。戦況を不利とみて大宰府攻略をあきらめ、博多の市街に火をかけて焼き払い、撤退することにした。<br />
<br />
『高麗史節要』巻十九、二十五に撤退決定の軍議の様子がある。<br />
<br />
元軍司令官「蒙人は戦に慣れてるがこれ以上は何も得られない」<br />
<br />
高麗軍将軍「我が兵少なしといえども既に敵地に入っている。船を焼き背水の陣でまた決戦したい」<br />
<br />
元軍司令官「疲れた少ない兵では大軍の餌にしかならない。撤退するしかない」<br />
<br />
撤退は決定したが、当時の艦船では、博多‐高麗間の北上は南風の晴れた昼でなければ危険であり、この季節では天気待ちで1ヶ月掛かる事もあった。<br />
<br />
夜中、炎上する箱崎宮より出た白装束の者30人ばかりが矢を射掛けたところ、元兵は恐怖し夜明けも待たず（朝鮮通信使のころでも夜間の玄海灘渡海は避けていた）我先にと抜錨し撤退は壊走となり玄海灘で遭難した。翌日、元の船団は姿を消しており、文永の役は終結する。元・高麗軍の不還者は1万3500余人とされる。[要出典]<br />
<br />
定説では日本の武士は名乗りを上げての一騎打ちしか戦い方を知らず一方的に敗退したが、幸運にも暴風雨、いわゆる神風が起きて元の船団はその夜のうちに撤退したとされる。しかし、これに関しては史料に矛盾する。詳しくは後述の神風を参照。<br />
<br />
元は撤退し、対南宋戦争が佳境に入ったことから、ひとまず主力は江南に向けられる事になった。<br />
<br />
なお、文永の役における両軍の兵力は、元軍が約2万6000（元軍2万、高麗軍6000）、鎌倉軍が約5000程だとされる。<br />
<br />
<br />
<br />
弘安の役 <br />
戦争: 元寇 <br />
年月日: 1281年5月21日〜7月7日 <br />
場所: 九州北部 <br />
結果: 日本側の圧勝 <br />
交戦勢力 <br />
鎌倉幕府地頭・御家人ら 元・高麗連合軍 <br />
指揮官 <br />
北条実政 征東行省右丞相アラカン <br />
戦力 <br />
120,000人 142,029人 <br />
損害 <br />
不明 130,000人戦死・溺死 <br />
 <br />
史跡元寇防塁<br />
東区筥松。本所の周辺は埋め立てられ、現在、本碑は海岸線から離れたところに位置する。(2004年8月撮影） <br />
元寇防塁1275年（日本の建治元年・元の至元十二年）、フビライは再び日本に使節を送る。北条時宗はこの使者を全員斬首に処した。(これは、使者が日本の国情を詳細に記録・偵察した、間諜(スパイ)としての性質を強く帯びていたためと言われる) 元は使者が殺されたことを知らないままに新しい使者を1279年（日本の弘安二年・元の至元十六年）に送り、再び殺される。（総計、5名という説が有力）この年に南宋を完全征服した元は、日本との同盟や南宋への牽制の必要もなくなった上（後項参照）、再度の使者の処刑にフビライは腹を立てていたため、日本への再度の攻撃を計画し始めた。<br />
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1281年（日本の弘安四年・元の至元十八年）に、高麗軍を主力とした東路軍四万と、旧南宋軍を主力とした江南軍十万、計14万の軍が日本に向けて出発した。<br />
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しかし、日本側は既に防衛体制を整えていた。博多沿岸に約20Kmにも及ぶ防塁を築いてこれを迎えたのである。この防塁はもっとも頑強な部分で高さ3m、幅2m以上ともされている。いち早く到着した東路軍は防塁のない志賀島に上陸するが日本軍の切り込みを受ける。文永の役によって元軍の戦法を承知していた日本軍は優勢に戦い元軍を海上に追い落とした。更にゲリラ戦術により元軍を悩ませた。東路軍は遅れてやってきた江南軍と合流した。しかしここで暴風雨が襲来し、元の軍船は浮いているだけの状態となった。これを好機と見た武士らは元軍に襲い掛かり、元軍を殲滅した。元軍で帰還できた兵士は後に解放された捕虜を含めて全体の1、2割だと言われる。なお、日本軍は高麗人とモンゴル人、および漢人は捕虜として捕らずに殺害したが、交流のあった南宋人に対しては捕虜として助命したという。博多の唐人町は南宋人の街であるともいわれる。この戦いによって元軍の海軍戦力の2/3以上が失われ、残った軍船も、かなり破損された。<br />
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なお、弘安の役における両軍の兵力は、元軍が約14万（東路軍4万、江南軍10万）、鎌倉軍が約12万（京都守備軍6万、博多守備軍4万、長門守備軍2万）だとされる。<br />
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影響<br />
フビライは三度目の元寇を画策していたが、この時期に元の内部でも反乱が続き、日本へ軍が出せる状態ではなくなり、フビライの死と共に完全に頓挫した。なお、正安3年11月（1301年）に薩摩国甑島の沖に異国船が出現し、うち1隻から襲撃を受けている。これについては、元の艦隊が偶発的に同地に辿り着いて上陸を試みたものと見られている。<br />
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文永の役後、幕府は博多湾の防備を強化しようとした。しかしこの戦いで日本側が物質的に得たものは無く、見返りとしての恩賞は御家人たちの満足のいくものではなかった。中には竹崎季長などのように鎌倉まで赴いて直接幕府へ訴え出て、恩賞を得るといったケースもあった。<br />
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弘安の役後、幕府は元軍の再度の襲来に備えて御家人の統制を進めたが、文永の役に続き弘安の役においても十分な恩賞給与がなされなかったため、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになった。幕府は徳政令を発布して御家人の困窮に対応しようとしたが、御家人の不満は完全には解消されなかった。<br />
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一方、当時の日本に「元に勝ったのは、公家などの貴族たちが、勝利や平和についての歌を作って詠んだ、言霊の結果である」あるいは「僧侶や神官らの折伏（しゃくぶく）や祈祷による結果である」との認識が広く存在していたことにも留意する必要がある。実際に弘安4年から翌年にかけて九州の諸社及び伊勢神宮に対して「興行法」と呼ばれる一種の徳政令が発布されて、幕府の安堵状が出されている御家人領も含めた全ての旧神領を神社へ返還するよう命じられている。<br />
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当時の日本国内では、対元戦争を日本の神と元の神の争いと見る観念が広く共有されており、歌詠みや諸社による折伏・祈祷は日本の神の力を強めるものと認識されていた。これを天人相関思想というが、日本を救った暴風雨を神風と呼ぶこととなったのも、この天人相関思想に起因するという説が有力となっている。また、神風によって日本が救われたという出来事は「神国思想」（＝日本は神国なのだから負けるはずがないという考え）を日本人に広く浸透させ、それが太平洋戦争末期の日本軍や国民思想の非合理性の温床となり、神風特別攻撃隊をはじめ数々の悲劇を生んだとも言われている。<br />
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貨幣経済の浸透や百姓階層の分化とそれに伴う村落社会の形成といった13世紀半ばから進行していた日本社会の変動は、元寇の影響によってますます加速の度合いを強めた。そして、御家人階層の没落傾向に対して新興階層である悪党の活動が活発化していき、この動きは鎌倉幕府滅亡へとつながっていく。<br />
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元寇の諸相<br />
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日本侵攻の理由<br />
文永の役の理由については南宋への牽制であり、少なくともクビライは最初から日本征服を望んでいたわけではないと考えられている。また、短期間での帰還理由についても、自主的撤退とする説が出されている。<br />
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それは、<br />
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日本側の対応を確認するため。これは、軍事的に言えば「威力偵察」と呼ばれているものであり、ごく基本的な戦術のひとつである。 <br />
ある程度の損害を与え、その後の交渉で日本に要求をのませるようにするため。これは、元がたびたび使っている戦法であり今回もそれに準じたものということである。 <br />
これは、当時の元が日本に使者を送った理由や情勢を考えると、至極妥当だとする考えである。<br />
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威力偵察目的であったと言う傍証として、時の元の水軍には長期戦略に対する装備の用意はなく、そのため一日で矢を撃ち尽くして去っていったという、元側の記録が残っている。<br />
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一方で、南宋が滅んだ後の弘安の役については様々な説がある。有力なものとしては、南宋を降した後に旧南宋軍を日本攻撃にあたらせ、消耗させるためと言うものがある。 近年の調査では、博多湾の底で見つかった元の軍船から、農業用の鋤や鍬などが見つかっている。このため、戦争に勝利した暁には屯田を目的としていたと考えられている。これをもって侵略の意図と見る見解があり、14万人という過剰な人員のうち、南宋の10万人は軍隊と言うよりも移民船団だったのではと言う見解も出されている。<br />
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高麗の関与<br />
『高麗史』によると1272年に、高麗の王世子の椹（後の忠烈王）が、元国のクビライ皇帝に「惟んみるに、日本は未だに聖化を蒙らず。故に詔を発し、軍容を継耀せしめんとせば、戦艦兵糧まさに、須いる所あらん、もし此事を以って臣に委ねなば、王師を小助せん」[4]と具申したとある。また「元史」によると、元寇の発端は、高麗王の忠烈王が「元の皇帝に執拗に、東征して日本を属国にするよう勧めた」との記述がある。これに対して忠烈王の発言の所以を高麗の国内事情に求める向きもある。高麗はモンゴルの侵攻前は武臣が王を傀儡化して政権を執っており、王はモンゴルの兵力を借りることによって王権を奪い返した。それ以後、高麗王はほとんどモンゴルと一体化し、モンゴル名を貰い、モンゴルの娘を王妃にしていた。これに反対する勢力は反乱を起こし、モンゴルにより鎮圧されるが、一部はなお激しい抵抗を続けていた。これが三別抄である。忠烈王の発言は王権を保つためにクビライの意を迎えようとしたとする見解がある。上述の三策の内、高麗ルートを選ばせたのもモンゴル兵力が高麗から離れてしまうことを恐れたためとも考えられる。<br />
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蒙古国書・元使殺害<br />
元が最初に送った国書であるが、これに関しては東洋史学者は概ね謙っていると見て、日本史学者は高圧的と見る傾向にあると言われる。wikisource:蒙古皇帝国書を参照のこと。ちなみに、北条時宗の反対で出される事はなかったものの、朝廷がクビライに出そうとした返書は「日本は天照大神以来の神国であって、外国に臣従する謂れはない」とするかなり過激な内容だったとも伝えられている。<br />
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また使者に対する殺害に関して、彼らがスパイ行為を行っていたためと言う見解がある。文永の役以前の使者の行動はかなり自由で、道中では色々な情報を集めることができた。そのため、使者による間諜行為がおこなわれたようである。『八幡大菩薩愚童訓』には「夜々ニ筑紫之地ヲ見廻、船戦之場懸足逃道ニ至マテ、差図ヲ書」とあり、『元史』趙良弼伝にも「使日本趙良弼、至太宰府而還、具以日本君臣爵号、州郡名数、風俗土宜来上」とある。こういった間諜行為が考慮されてか、文永の役以降は使者を斬るようになる。また、武家政権である鎌倉幕府の性格からの武断的措置であるとする解釈や、対外危機を意識させ防戦体制を整える上での決定的措置であるとする考え方などがある。<br />
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元使殺害の評価については賛否両論がある。同時代では日蓮が批判し、後世の評価では日本侵攻の口実になった暴挙を評価する論者と、元の対日侵攻には影響を与えなかった、あるいは国難に対しては手本にするべき好例であると肯定的に評価する『大日本史』や、頼山陽らがいる。<br />
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神風<br />
文永の役における蒙古軍の撤退に関して、日本側の史料には一夜明けると蒙古船が消失していた事実が記されているのみとされる。<br />
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公家の広橋兼仲の日記『勘仲記』には、伝聞として逆風が吹いたことを記されてる。<br />
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高麗の史料、『高麗史』などには撤退途中に風雨が起き多数が座礁した事が記されている。がしかしそれならば何故日本側の史料にその記載が無いのか。<br />
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気象学的には過去の統計に台風の渡来記録が無いことから、台風以外の気象現象という見解もとられている。<br />
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文永の役に関しては、台風説の可能性はほぼなかったと、今日ではみなすものが多い。弘安の役に於いても、当時の日本が知り得なかった江南軍壊滅の理由を台風や熱帯低気圧の影響としながらも、博多沖の東路軍は、それとは違った理由で壊滅したという説もある。<br />
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軍事面<br />
定説では元の集団戦術に対して、当時の日本は一騎打ちを基本とした戦い方をしていたと言われており、また元軍には毒矢、鉄砲（火器）などの最新兵器のために各地で日本軍は苦戦したとされる。 しかし、史料には武士達が集団戦術に対応した様子が書かれている。<br />
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日本側の弘安の役での戦術や対策としては、<br />
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先述の防塁に楯を用いた防御。 <br />
前回の文永の役での元の戦力を分析し、日本は元軍より射程距離の長い弓矢を開発して使用した。（一方、東路軍は、沖の波に揺られる船上から不安定なまま矢を射ることとなり、射程距離も及ばないことも重なり、日本軍にダメージを与えられないまま、沖の上で停滞を強いられた。） <br />
夜間、日本側からの小舟に分乗して、高麗船を奇襲。狭い船内での斬り合いでは、日本の武士の方に分があった。 <br />
合流するはずだった江南軍は、指揮官の交替と、多人数による混乱により、統率が取れず、東路軍との合流が、1ケ月半ほど遅れた。 <br />
一方、東路軍は、博多沖の海上で釘付け状態となり、度重なる日本軍のゲリラ戦術と食料や水不足と発生した疫病により、「兵糧攻め」と同じ状態になって疲弊していた。 <br />
江南軍が遅れて出発したが、そのために、台風時期と重なり、合流前にほぼ壊滅状態。博多沖の東路軍も、時間差で同じ台風ないしは、熱帯低気圧によって壊滅したとみなされている。 <br />
その他、敗因はさまざまに語られるが、上記のとおり重複する点も含めて、日本軍が元軍の上陸前に船や陸上から攻撃を与えたことも要因の一つである。遊牧民族であるモンゴル人は船上の戦法を心得ておらず、モンゴル軍が有効に活用し、連戦連勝を重ねてきたお得意の騎馬隊を上陸戦のため使うことができなかった。また、暴風雨によって多くの船がもろくも沈んだ理由として、船を服属させた高麗人や越人（ベトナム人）に作らせたことにあるとされる。彼らはすでにモンゴル人支配の不満を募らせており、輸送船の造船は急務でもあり、突貫工事的に手抜きによって建造されていた。また、兵士も占領した高麗人や漢民族を徴用した多民族軍であったため、士気が低かったと思われる。<br />
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]]></content></entry><entry><title>日本の歴史年表(日本史)【鎌倉時代】?</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://nihonnorekishi.il-o-l.com/?eid=464548" /><id>http://nihonnorekishi.il-o-l.com/?eid=464548</id><issued>2007-02-02T14:15:21+09:00</issued><modified>2007-02-02T05:15:21Z</modified><created>2007-02-02T05:15:21Z</created><summary>日本の歴史年表(日本史)【鎌倉時代】?

■1192年（いいくに）
源頼朝（みなもとのよりとも）が征夷大将軍（せいいたいしょうぐん）に任じられて、鎌倉幕府を開く。

鎌倉幕府【かまくらばくふ】
出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』

鎌倉幕府（かまくらばくふ）...</summary><author><name>nihonnorekishi</name></author><dc:subject>日本の歴史年表(日本史)【鎌倉時代】</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[日本の歴史年表(日本史)【鎌倉時代】?<br />
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■1192年（いいくに）<br />
源頼朝（みなもとのよりとも）が征夷大将軍（せいいたいしょうぐん）に任じられて、鎌倉幕府を開く。<br />
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鎌倉幕府【かまくらばくふ】<br />
出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』<br />
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鎌倉幕府（かまくらばくふ）は、源頼朝が鎌倉に創設した武家政権（幕府）である。<br />
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かつての通説によると、鎌倉幕府は、1192年に源頼朝が征夷大将軍（以下、将軍）に任官されて始まったとされていたが、頼朝の権力・統治機構はそれ以前から存続しており、現在ではこの説は支持されていない。また、従来「日本で最初の武家政権」とされてきたが、今日では平清盛の平氏政権をこれにあてる説が有力である。鎌倉幕府は1333年に鎌倉の北条氏が新田義貞らの軍に滅ぼされて幕を閉じた。この間の140年余りを鎌倉時代と呼ぶ。<br />
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「幕府」という政治形態は、室町幕府・江戸幕府へ継承されていく事になる。しかし、政権の名称については、『吾妻鏡』によれば、征夷大将軍の館を「幕府」と称した記述はあるが、この時代には武家の中央政権を「幕府」と呼んだことはない。政権を「幕府」というのは江戸時代の学者による呼称である。武士達は鎌倉政権のことを大抵「鎌倉殿」と呼んでいた。また、「幕府」はあくまでも将軍家の家政機関であり、公的な組織ではない。従って、当初「幕府」が政治的に影響力を及ぼすことができたのは、将軍任国である関東と将軍所領のみである。<br />
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■1219年<br />
源実朝が殺されて、源氏が3代で滅びる<br />
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源実朝【みなもとのさねとも】<br />
出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』<br />
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源 実朝（みなもと の さねとも、源 實朝、建久3年（1192年） - 建保7年（1219年））は鎌倉幕府の第三代征夷大将軍である。官位は征夷大将軍右大臣正二位左近衛大将・左馬寮御監。<br />
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鎌倉幕府を開いた源頼朝の子として生まれ、兄の源頼家が追放されると十二歳で征夷大将軍に就く。政治は始め執権を務める北条氏などが主に執ったが、成長するにつれ関与を深めた。官位の昇進も早く武士として初めて右大臣に任ぜられるが、その翌年に鶴岡八幡宮で頼家の子公暁に襲われ落命した。子は残さず源氏の将軍は実朝で絶えた。<br />
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歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入集し、小倉百人一首にも選ばれている。家集として金槐和歌集がある。<br />
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■1221年<br />
承久の乱（じょうきゅうのらん）がおきて、京都に六波羅探題（ろくはらたんだい）をおく。<br />
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承久の乱【じょうきゅうのらん】<br />
出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』<br />
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承久の乱（じょうきゅうのらん）は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた兵乱である。承久の変、承久合戦ともいう。<br />
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武家政権である鎌倉幕府の成立後、京都の公家政権（治天の君）との二頭政治が続いていたが、この乱の結果、幕府が優勢となり、朝廷の権力は制限され、幕府が皇位継承などに影響力を持つようになる。<br />
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六波羅探題【ろくはらたんだい】<br />
出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』<br />
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六波羅探題（ろくはらたんだい）は、鎌倉幕府の職名の一つ。承久3年（1221年）の承久の乱ののち、幕府がそれまでの京都守護を改組し京都六波羅の北と南に設置した出先機関。それぞれ、六波羅探題北方・六波羅探題南方と呼ぶ。<br />
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概要<br />
承久の乱の戦後処理として、後鳥羽上皇方に加担した公家・武士などの所領が没収され、御家人に恩賞として再分配された。これらは、それまで幕府の支配下になかった荘園で、幕府の権限が及び難い西国に多くあった。再分配の結果、これらの荘園にも地頭が置かれた。以前に幕府の支配下にあった土地に置かれた地頭を本補地頭と呼ぶのに対して、これを新補地頭という。また、幕府側は、朝廷方の動きを常に監視し、制御する必要が出てきた。朝廷の動きをいち早く掴むために白河南の六波羅にあった旧平清盛邸を改築して役所にした。<br />
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そのため、北条泰時・北条時房の二人が六波羅の北と南に駐留してこの作業にあたった。西国の御家人を組織し直し、京都の警備、朝廷の監視、軍事行動などを行わせた。これが六波羅探題の始まりである。探題は執権・連署に次ぐ重職とされ、伝統的に北条氏から北方、南方の各一名が選ばれて政務に当たった。探題には北条氏一族でも将来有望な若い人材が選ばれる事が多く、鎌倉に帰還後には執権・連署にまで昇進する者が多くいた。またその下には評定衆などの鎌倉の組織に準じた下部組織なども置かれた。<br />
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六波羅探題は、朝廷では無く幕府の直接指揮下にあり、西国で起きた地頭と国司などのトラブルを処理する裁判機能、京都周辺の治安維持、朝廷の監視、皇位決定の取り次ぎなどを行った。更に文永の役翌年の建治元年（1275年）には六波羅探題の機能はさらに強化され、御家人処罰の権限と裁判制度が充実された。だが、一方では権限に伴う実際の強制力は十分とは言えなかった。例えば、幕府の命令で有力寺社への処分を行った担当官吏が、後に相手側の僧兵の圧力に屈した幕府によって流刑などの重い処分を受けるという理不尽な事態も少なくなかった。また、幕府から直接派遣された「東使」と称される特使が朝廷との直接交渉や探題への指揮の権限を与えられるケースもあり、その権限は常に幕府中枢によって掣肘を加えられていたと言ってよい。従って、その事情をよく知る者の中には六波羅への赴任を嫌う者もいたと言われている。<br />
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元弘3年/正慶2年（1333年）に後醍醐天皇の討幕運動から元弘の乱が起こり、令旨に応じた足利高氏（尊氏）や佐々木道誉、赤松円心らに京都を攻められ、北条仲時らは京を追われて滅亡する。その跡地は現在、京都市立六原小学校になっている。ちなみにその近くに六波羅蜜寺がある。<br />
]]></content></entry><entry><title>日本の歴史年表(日本史)【平安時代】?</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://nihonnorekishi.il-o-l.com/?eid=462618" /><id>http://nihonnorekishi.il-o-l.com/?eid=462618</id><issued>2007-01-30T12:25:19+09:00</issued><modified>2007-01-30T03:25:20Z</modified><created>2007-01-30T03:25:19Z</created><summary>日本の歴史年表(日本史)【平安時代】?

■1167年
平清盛（たいらのきよもり）が太政大臣になる。

平清盛【たいらのきよもり】
出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』

清盛像（京都 若一神社）平 清盛（たいらの きよもり）は、平安時代末期の武将。

伊勢平氏棟梁...</summary><author><name>nihonnorekishi</name></author><dc:subject>日本の歴史年表(日本史)【平安時代】</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[日本の歴史年表(日本史)【平安時代】?<br />
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■1167年<br />
平清盛（たいらのきよもり）が太政大臣になる。<br />
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平清盛【たいらのきよもり】<br />
出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』<br />
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清盛像（京都 若一神社）平 清盛（たいらの きよもり）は、平安時代末期の武将。<br />
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伊勢平氏棟梁忠盛の嫡子として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で源義朝を討ち、武士では初めて太政大臣に任ぜられ、「平氏にあらずんば人にあらず」と言われる時代を築き、不和となった後白河法皇を幽閉するも、驕る平家は武士の不満をも買い、源氏による平家打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。<br />
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平家の棟梁<br />
元永元年（1118年）、伊勢平氏の頭領である平忠盛の嫡子として伊勢産品で生まれる。生母は祇園女御、もしくはその妹という諸説があって定かではない。ただし、平家物語には白河天皇（法皇）の子を宿した祇園女御を法皇が忠盛に下賜し、生まれたのが清盛であると言われている。つまり清盛は、白河法皇のご落胤であるという説もあるが定かではない。事実、清盛は幼少の頃、白河法皇に寵愛されたという経緯もある。<br />
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1129年（大治4年）、従五位下左兵衛佐に叙任される。1146年（久安2年）、父忠盛は海賊討伐の功績で刑部卿に累進、それを譲り受け従四位下中務少輔兼安芸守となる。瀬戸内海の制海権を手にしたことで莫大な利益をあげ、父と共に西国への勢力を拡大した。またその頃より宮島の厳島神社を信仰するようになり、1153年（仁平3年）には、忠盛の死後に京都の伊勢平氏一門の頭領となる。<br />
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保元の乱、平治の乱<br />
1156年（保元元年）の保元の乱に際しては、源義朝らと組んで、後白河天皇側に加担して勝利し、後白河天皇の信頼を得て、播磨守、大宰大弐となる。しかしこの頃から清盛は藤原信西（通憲）と手を結んで権力の強大化を図った。これに不満を抱いた藤原信頼と源義朝によって反乱が起こされる。いわゆる1159年の平治の乱であるが、この乱で清盛は源義朝を誅殺、さらにその子・源義平をはじめとする多くの源氏一族を処刑し、義朝の3男・源頼朝を伊豆国に流罪に処した。これにより、清盛は武家政権樹立の礎を築くにいたったのである。<br />
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全盛期<br />
その後、最初のうちは二条天皇の親政を支持していたが、妻・平時子の姉妹である平滋子（建春門院）と後白河上皇との間に憲仁親王（後の高倉天皇）が生まれると、平家一門の間には憲仁親王の即位を望む声が高まる。これに反発した二条天皇が時子・滋子の兄である平時忠を流刑にしたために、清盛も次第に後白河上皇と接近するようになった。二条天皇が急死すると、清盛は上皇と図って憲仁親王を皇太子とした。<br />
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以後しばらくの間は後白河上皇との蜜月が続いた。官位も、1160年に正三位参議、1161年には検非違使別当、1165年には兵部卿を兼任して権大納言、1166年には正二位、春宮大夫から内大臣へと昇進を続け、1167年には武士として初めて、というより左大臣や右大臣を経ずして異例の従一位、太政大臣に昇りつめた。言わば清盛は武士として初めて、位人臣を極めたのである。しかしやがて重病に倒れて、一時は死の境をさまよった。このときの病は腹痛であったと言われているが、これを理由に清盛は三ヶ月ほどで太政大臣を辞めて隠棲して入道となり、以後は相国入道と呼ばれることとなった。しかし実権は手放さず、絶大な権力を誇った。この間、平氏一門は隆盛を極め、一族で主要官位を独占し、全国に500余りの荘園を保有し、日宋貿易を推進して莫大な財貨を手にし、平時忠をして「平氏にあらざれば人にあらず」といわしめた。<br />
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平家に対する不満<br />
清盛の権勢は留まる所を知らず、高倉天皇に自らの娘である平徳子（建礼門院）を娶わせ、天皇の外戚となった。さらに清盛は娘の平盛子を摂関家の藤原基実に嫁がせたのをはじめ、多くの子女を有力公家衆と娶わせるなど、婚姻政策を駆使して巧みに権力を拡大していった。<br />
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ところが、この清盛の勢力の伸張に対して、後白河法皇（1169年に出家）をはじめとする院政勢力は不快感を感じるようになり、次第に清盛と対立を深めていく。<br />
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1177年6月には鹿ケ谷の陰謀事件が起こる。これは多田行綱の密告で露見したが、これを契機に清盛は院政における院近臣の排除を図る。藤原師光（西光）は処刑とし、藤原成親は備中へ流罪（流刑地で崖から転落という謎の死を遂げる）俊寛らは鬼界ヶ島に流罪に処した。ただし清盛もさすがに法皇に対しては罪を問わなかった。<br />
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治承3年（1179年）、この年は清盛にとって不幸の連続であった。まず6月に、娘の盛子が死去する。ところが盛子が死去すると、法皇は直ちに盛子の荘園を清盛と相談もせずに没収するにいたった。さらに7月には清盛の嫡男で、清盛が後継者として期待していた平重盛が42歳で病死してしまった。これには清盛もさすがに落胆の色を隠せなかったが、法皇は重盛の死去と同時に、またも清盛に何の相談もなく重盛の知行国であった越前国を没収してしまった。<br />
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清盛はこの法皇の自分を無視する施策に遂に激怒し、11月14日、福原（現在の神戸）から軍勢を率いて自ら上洛し、翌15日にクーデターを決行した。いわゆる治承のクーデターであるが、清盛はこのクーデターで院近臣である藤原基房をはじめとする反平家的な公家、およそ39名の任官を全て解任とし、代わって親平家的な公家を任官するにいたったのである。これに対して法皇は恐れを覚えて清盛に許しを請うが、清盛はこれを許さず、11月20日には法皇を鳥羽殿に幽閉するにいたった。ここに後白河院政は完全に停止し、清盛の完全独裁化による平氏政権が成立したのである。なお、清盛は治承4年（1180年）2月、高倉天皇を退位させて、自らの孫である安徳天皇を即位させた。安徳天皇の母は言うまでもなく清盛の娘・徳子である。これにより平家は全盛期を迎え、その知行国は日本全国の半分以上に及ぶにいたった。<br />
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反乱の狼煙<br />
しかし平氏の専横に対して、皇族・貴族はもちろん、武士勢力も自分たちの利害から離れて貴族化した平氏に不満を抱くようになった。その第一波として1180年に後白河法皇の第2皇子以仁王を奉じた源頼政の反乱が起こる。これは清盛の手早い対策によって四男の平知盛を総大将とした大軍を派遣し、以仁王と源頼政を敗死に追い込んだ。さらに清盛は以仁王の反乱に協力したとして園城寺（三井寺）を五男の平重衡を総大将とした軍勢を派遣して滅ぼすにいたった。しかし寺社勢力、特に園城寺と同じ天台宗の比叡山延暦寺の動向を危険視する清盛は、法皇派の公家衆の不穏な動きなどもあったため、平家の体制を万全なものとするために1180年6月、平氏の拠点である国際貿易港の大輪田泊を望む福原（現在の兵庫県神戸市）への遷都を強行する。<br />
<br />
しかし以仁王の令旨が全国各地に飛び火して、8月には伊豆に流していた源頼朝が北条氏と手を結んで挙兵する。9月には信濃国において源義仲が挙兵する。これに対して清盛は頼朝の勢力拡大を防ぐため、嫡孫の平維盛を総大将とした大軍を関東に派遣したが、富士川の戦いでこともあろうに水鳥の羽音に驚いて撤退するという醜態を晒し、平家軍の弱体化を露呈するに至ってしまった。<br />
<br />
この敗戦を契機として寺社勢力、特に以仁王の反乱に協力的であった興福寺が不穏な動きを見せ始める。さらに公家衆らの遷都に対する反感も根強かったため、11月に清盛は京都に還都するにいたった。そして12月には重衡を総大将とした大軍を南都に派遣して南都を焼き討ちした。さらに知盛を総大将とした軍勢を近江国・美濃国に派遣して源氏勢力の反乱を鎮圧させた。確かにこれにより都周辺の反平家勢力の動きは鎮静化したが、南都焼き討ちは清盛に仏敵の汚名を着せるにいたってしまった。<br />
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最期<br />
翌養和元年（1181年）に入ると、平家の勢力基盤である西国においても伊予国の河野通清・河野通信父子、豊後国の緒方惟能・臼杵惟隆・佐賀惟憲ら豪族が挙兵するにいたった。さらに東国においても平家方であった佐竹氏などが頼朝によって討伐されるなど、反乱がいよいよ深刻化してくる。<br />
<br />
このような中で、清盛は京都を中心とした新たな平家体制を築こうと惣官・総下司という官制を成立させようとする。さらに源義仲に対しては越後国の城資永・城助職（城長茂）を当てて鎮圧させようとした。ところが清盛は2月末頃から熱病に倒れ、閏2月4日に九条河原口の平盛国の屋敷で死去してしまった。享年64。<br />
<br />
恐らくは当時、大陸から伝来して流行していた風土病により、マラリアにかかったものと思われる。清盛の死により、平家の新体制作りは計画倒れに終わってしまったのであった。なお、清盛は死に臨んで「葬儀などは無用。頼朝の首を我が墓前に供えよ」と遺言を残したと言われているが、これは平安時代末期の武士の感覚からはありえない遺言であるという指摘が強く、後年の創作であると言われている。むしろ清盛は自分の死後、平家一門の行く末を案じて頼朝と和睦するように示唆したとも言われている。<br />
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死後と評価<br />
清盛の死後、嫡男の重盛はすでに病死し、次男の平基盛も早世していたため、平氏の棟梁の座は三男の平宗盛が継いだが、宗盛は清盛と違って才能に乏しく、清盛のような強烈な個性も無かったため、全国各地で相次ぐ反乱に対処できず、また法皇を中心とした院政勢力も勢力を盛り返すなど、平家は次第に追いつめられていった。しかも折からの飢饉（養和の大飢饉）という悪条件なども重なって、平家は1183年、倶利伽羅峠の戦いで平家軍が壊滅した後、源義仲の攻勢の前に成す術無く都落ちする。そして1185年の壇ノ浦の戦いに敗れて平家は滅亡した。<br />
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これを見てもわかるように、平家の繁栄は清盛という一個人の非凡な才能と強烈な個性で支えられていた部分が強く、確固たる体制が築かれていなかった。清盛もそれを最晩年にようやく気づいて体制確立に努めていたが、その清盛自身が体制確立の最中に病死したため、計画倒れに終わったのである。そして清盛が反乱が相次ぐという悪い時期の中で死去したことも平家滅亡の遠因となった。また、平家には清盛以外に優れた人材がほとんどいなかったこともあり、清盛が死去した時点で平家の繁栄も終焉したと言えるのである。しかし、日本初の武家政権を築き上げ、海千山千の朝廷や寺社勢力を相手に互角以上に渡りあい、さらには諸外国との貿易にも着目した清盛は、日本における大政治家の一人と言えるであろう。<br />
<br />
『平家物語』における悪虐、非道、非情の描写から、平清盛は古来成り上がり者の暴君、という評価が定着していた。一方では政治的には日宋貿易に見られるような財政基盤の開拓、経が島築造に見られるような公共事業の推進など、時代の矛盾に行き詰まりつつあった貴族政治に新生面を切り開いたとする肯定的評価もされている。<br />
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■1180年<br />
源頼朝が伊豆で兵を挙げる<br />
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■1185年<br />
壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡する<br />
源頼朝が守護地頭を置く<br />
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壇ノ浦の戦い【だんのうらのたたかい】<br />
出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』<br />
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戦争: 治承・寿永の乱 <br />
年月日: 1185年（元暦2年/寿永4年）3月25日 <br />
場所: 長門国 赤間関壇ノ浦 (現 下関市) <br />
結果: 源氏軍の勝利 <br />
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壇ノ浦の戦い（だんのうらのたたかい）とは、平安時代の後期の元暦2年（寿永4年）3月24日（1185年3月25日）に長門国赤間関壇ノ浦（現在の山口県下関市）で行われた合戦である。治承・寿永の乱の最後の戦いであった。<br />
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背景<br />
寿永2年（1183年）7月、源義仲に攻められた平氏は安徳天皇と三種の神器を奉じて都を落ちるが、その後の鎌倉政権の源頼朝と義仲との対立に乗じて摂津国福原まで復帰した。しかし、寿永3年/治承8年（1184年）2月の一ノ谷の戦いで大敗を喫して、海に逃れ讃岐国屋島と長門国彦島（山口県下関市）に拠点を置いた。<br />
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鎌倉政権は頼朝の弟範頼に3万騎を率いさせて山陽道を進軍して九州に渡り平氏軍の背後を遮断する作戦を実行する。だが、範頼軍は兵糧の不足と優勢な水軍を有する平氏軍の抵抗によって進軍が止まり、九州にも渡れなくなった。このため頼朝は義経に別働隊を編成させて平氏の本拠讃岐国屋島を攻めさせた。元暦2年/寿永4年 （1185年）2月、義経は奇襲によって屋島を攻略（屋島の戦い）。平氏総帥の平宗盛は安徳天皇を連れて海上へ逃れ、彦島に拠った。<br />
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一方、範頼軍は兵糧と兵船の調達に成功して九州に渡り、同地の平氏方を葦屋浦の戦いで破り、平氏軍の背後の遮断に成功。平氏軍は彦島に孤立してしまった。<br />
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合戦の経過<br />
鎌倉幕府の公式日記（もしくはそれに准じるもの）である『吾妻鏡』には壇ノ浦の戦いについては元暦二年三月二十四日の条で「長門国赤間関壇ノ浦の海上で三町を隔て船を向かわせて源平が相戦う。平家は五百艘を三手に分け山峨兵藤次秀遠および松浦党らを将軍となして源氏に戦いを挑んだ。午の刻に及んで平氏は敗北に傾き終わった。」とのみ簡潔に書かれており、合戦の具体的な経過は分からない。そのため信憑性には難があるものの『平家物語』『源平盛衰記』などの軍記物語を基に巷間で信じられている合戦の経過を述べることになる。<br />
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また、以下の経過は大正時代に黒板勝美東京帝国大学教授が提唱して以来、広く信じられている潮流説に基づいている。<br />
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開戦<br />
彦島の平氏水軍を撃滅すべく、義経は摂津国の渡辺水軍、伊予国の河野水軍、紀伊国の熊野水軍などを味方につけて840艘（『吾妻鏡』）の水軍を編成する。<br />
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『平家物語』によれば、合戦前の軍議で軍監の梶原景時は合戦の先陣になることを望むが、義経は自らが先陣に立つとはねつけた。景時は「大将が先陣なぞ聞いた事がない。将の器ではない」と義経を愚弄して斬りあい寸前の対立となり、これが後の景時の頼朝への讒言となり、義経の没落につながるとされる。<br />
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平氏軍は500艘（『吾妻鏡』）で、松浦党100余艘、山鹿兵籐次秀遠300余艘、平氏一門100余艘（『平家物語』）の編成であった。宗盛の弟の知盛が大将として指揮を取ることになった。『平家物語』によれば知盛は通常は安徳天皇や平氏本営が置かれる大型の唐船に兵を潜ませて鎌倉方の兵船を引き寄せたところを包囲する作戦を立てていた。<br />
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壇ノ浦の戦い戦況推移図拡大3月24日、攻め寄せる義経軍水軍に対して、知盛率いる平氏軍が彦島を出撃して、午の刻（12時ごろ）（『玉葉』による、『吾妻鏡』では午前）に関門海峡壇ノ浦で両軍は衝突して合戦が始まった。<br />
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範頼軍は3万余騎（『源平盛衰記』）をもって陸地に布陣して平氏の退路を塞ぎ、岸から遠矢を射かけて義経軍を支援した。『平家物語』によれば和田義盛は馬に乗り渚から沖に向けて遠矢を二町三町も射かけたという。<br />
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平氏優勢<br />
関門海峡は潮の流れの変化が激しく、水軍の運用に長けた平氏軍はこれを熟知しており、早い潮の流れに乗ってさんざんに矢を射かけて、海戦に慣れない坂東武者の義経軍を押しまくった。義経軍は干珠島、満珠島のあたりにまで追いやられ、勢いに乗った平氏軍は義経を討ち取ろうと攻めかかる。<br />
<br />
不利を悟った義経は敵船の水手・梶取（漕ぎ手）を射るよう命じた。この時代の海戦では非戦闘員の水手・梶取を射ることは戦の作法に反する行為だったが、義経はあえてその掟破りを行った。漕ぎ手を失った平氏軍は身動きが取れなくなって狼狽、そこを義経軍が攻めかかり、武勇の坂東武者たちが敵船に乗り移って白兵戦となった。『平家物語』によれば、この時、阿波重能の水軍300艘が寝返ってしまった。阿波重能は平氏軍の唐船の計略を義経に告げて知盛の作戦は失敗してしまう。しかし、『吾妻鏡』によれば、阿波重能は合戦後の捕虜に含まれており、このような内応は実際はなかったようだ。<br />
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源氏の反攻と平氏滅亡<br />
やがて、潮の流れが変わって反転すると、義経軍はこれに乗って、平氏軍を押しまくる。平氏軍は壊滅状態になり、勝敗は決した。敗北を悟った平氏一門は次々と海上へ身を投じた。<br />
<br />
『平家物語』には平氏一門の最後の様子が描かれている。知盛は建礼門院や二位ノ尼らの乗る女船に乗り移ると「見苦しいものを取り清め給え、これから珍しい東男を御目にかけましょう」と笑った。これを聞いた二位ノ尼は死を決意して、幼い安徳天皇を抱き寄せ、宝剣を腰にさし、神璽を抱えた。安徳天皇が「どこへ行くのか」と仰ぎ見れば、二位ノ尼は「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がございます」と答えて、安徳天皇とともに海に身を投じた。『吾妻鏡』によると二位ノ尼が宝剣と神璽を持って入水、按察の局が安徳天皇を抱いて入水したとある。続いて建礼門院ら平氏一門の女たちも次々と海に身を投げる。<br />
<br />
武将たちも覚悟を定め、教盛は入水、経盛は一旦陸地に上がって出家してから還り海に没した。資盛、有盛、行盛も入水している。<br />
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平家の総帥宗盛も嫡男の清宗と入水するが、命を惜しんで浮かび上がり水練が達者なために泳ぎ回っていたところを義経軍に捕らえられてしまった。<br />
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 <br />
関門海峡剛の者である教経は、鬼神の如く戦い坂東武者を討ち取りまくるが、知盛が既に勝敗は決したから罪作りなことはするなと伝えた。教経は、ならば敵の大将の義経を道連れにせんと欲し、義経の船を見つけてこれに乗り移った。教経は小長刀を持って組みかからんと挑むが、義経はゆらりと飛び上がると船から船へと飛び移り八艘彼方へ飛び去ってしまった。義経の「八艘飛び」である。義経を取り逃がした教経に大力で知られる安芸太郎が討ち取って手柄にしようと同じく大力の者二人と組みかかった。教経は一人を海に蹴り落とすと、二人を組み抱えたまま海に飛び込んだ。『平家物語』に描かれた平氏随一の剛将として知られ屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで義経を苦しめた教経の最後だが、『吾妻鏡』によれば教経はこれ以前の一ノ谷の戦いで討ち死にしている。<br />
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知盛は「見るべき事は見つ」とつぶやくと、鎧二領を着て乳兄弟とともに入水した。<br />
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申の刻（16時ごろ）（『玉葉』による。『吾妻鏡』では午の刻（12時ごろ））平氏一門の多くが死ぬか捕らえられ、戦いは源氏の勝利に終わった。<br />
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戦後<br />
入水した建礼門院は助け上げられ、内侍所（八咫鏡）と神璽（八尺瓊勾玉）は回収されたが、二位ノ尼とともに入水した安徳天皇は死去し、宝剣（天叢雲剣）も海に没した（別説あり、後述）。<br />
<br />
安徳天皇の異母兄の守貞親王（安徳天皇の皇太子に擬されていた）は救出された。平氏一門のうち宗盛、清宗、それに平時忠（二位ノ尼の弟）は生捕りにされている。<br />
<br />
義経は建礼門院と守貞親王それに捕虜を連れて京へ戻り、範頼は九州に残って戦後の仕置きを行うことになった。義経は京に凱旋し、後白河法皇はこれを賞して義経とその配下の御家人たちを任官させた。これを知った頼朝は激怒して、任官した者たちの東国への帰還を禁じる。さらに、九州に残っていた梶原景時から頼朝へ平氏追討の戦いの最中の義経の驕慢と専横を訴える書状が届き、義経が平時忠の娘を娶ったとこも知らされ、頼朝を怒らせた。<br />
<br />
元暦2年（1185年）5月、命令に反して義経は宗盛・清宗父子を護送する名目で鎌倉へ向かうが、腰越で止められてしまう。宗盛父子のみが鎌倉へ送られ頼朝と対面する。義経は腰越状を書いて頼朝へ許しを乞うが、同年6月に宗盛父子とともに京へ追い返されてしまう。宗盛・清宗父子は京への帰還途上の近江国で斬首された。<br />
<br />
その後、義経が頼朝に許されることは無く、頼朝との対立が強まり、同年10月に後白河法皇に奏上して頼朝追討の宣旨を出させて挙兵するが失敗。逆に追討の宣旨を出されて没落して奥州藤原氏の元へ逃れるが、文治5年（1189年）閏4月に平泉で殺された。<br />
<br />
合戦後ほどなく建礼門院は出家した。守貞親王はすでに皇位への道は断たれており、後に出家している。平時忠は能登国へ流罪となり、そこで死んでいる。<br />
<br />
この戦いにより、平氏（伊勢平氏の平清盛一族）は25年にわたる平氏政権の幕を閉じた。勝利を収めた清和源氏の頭領・源頼朝は、鎌倉に幕府を開き武家政権を確立させる。<br />
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]]></content></entry><entry><title>日本の歴史年表(日本史)【平安時代】?</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://nihonnorekishi.il-o-l.com/?eid=452130" /><id>http://nihonnorekishi.il-o-l.com/?eid=452130</id><issued>2007-01-15T00:56:11+09:00</issued><modified>2007-01-14T15:56:13Z</modified><created>2007-01-14T15:56:11Z</created><summary>日本の歴史年表(日本史)【平安時代】?

■1086年
白河上皇が院政を始める

【院政（いんせい）】
出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』

院政（いんせい）とは、在位する天皇の直系尊属である太上天皇（上皇）が、院庁において天皇に代わって政務を直接行う形態の...</summary><author><name>nihonnorekishi</name></author><dc:subject>日本の歴史年表(日本史)【平安時代】</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[日本の歴史年表(日本史)【平安時代】?<br />
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■1086年<br />
白河上皇が院政を始める<br />
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【院政（いんせい）】<br />
出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』<br />
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院政（いんせい）とは、在位する天皇の直系尊属である太上天皇（上皇）が、院庁において天皇に代わって政務を直接行う形態の政治である。院政を布く上皇は治天の君とも呼ばれた。<br />
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【白河上皇（しらかわじょうこう）】<br />
幼い時は父子ともに冷遇されたが、治暦4年（1068年）、父帝即位とともに親王宣下を受け貞仁親王となる。翌延久元年（1069年）立太子、同4年、20歳で即位。関白を置いたが、翌5年、上皇の病没後も、父同様に親政を目指し、荘園整理などに力を入れ摂関家の権勢を弱めることに努める。<br />
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後三条院とその生母である陽明門院は白河天皇の異母弟実仁親王更にその弟の輔仁親王に皇位を継がせる意志を持ち、譲位時に実仁親王を皇太弟と定めた。白河天皇はこれに反発したが応徳2年（1085年）実仁親王は病没した。これにより、応徳3年11月（1086年）、白河天皇は輔仁親王ではなく、8歳のわが子の善仁親王（第73代堀河天皇）を皇太子に立て、即日譲位した。太上天皇となった白河は、幼帝を後見するために白河院として自ら政務を執り、いわゆる院政が出現した。引き続き摂政関白は置かれたものの、これにより名目上の存在に近いものとなる。<br />
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白河上皇は堀河天皇の成人後も政権を返すことなく、受領階級や武家出身の近臣を用いて専制的な政治を行った。武士は、院の警護役として創設した北面の武士になどにあてた。<br />
<br />
熱心に仏教を信じ、嘉保3年（1096年）には皇女の病没を機に出家し法名を融観とし、法皇となった。また法勝寺等の多くの寺院や仏像をつくらせたが、その経済力は受領の経済力を活用した。<br />
<br />
堀河天皇崩御後は、その皇子で自らの孫である第74代鳥羽天皇、更にその子の第75代崇徳天皇と3代にわたって幼主を擁し、大治4年7月7日（1129年7月24日）、77歳で崩御するまで実に3代43年間院政を敷いた。これを「治天の君」という。<br />
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白河法皇が「天下の三不如意―賀茂川（鴨川）の水（鴨川の流れとそれによる水害）・双六の賽（さいころ、当時の双六は賭博の手段として盛んに用いられて、さいころの目の動きが勝敗を分けた）・山法師（比叡山の僧衆〔僧兵〕）」だけはどうしようもないと嘆いたという故事は、裏を返せば彼がそれ以外のものであれば思い通りにならない事はないという絶大な権力を誇っていたことを示している。また、女性関係の派手さでも知られており、崇徳天皇や平清盛が「白河法皇の御落胤」であるという噂が当時広く流布され信じられる原因ともなっている。<br />
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■1156年<br />
保元の乱がおこる<br />
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【保元の乱（ほうげんのらん）】<br />
出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』<br />
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保元の乱（ほうげんのらん）は、平安時代の1156年（保元元年）に崇徳上皇と後白河天皇が対立し、上皇側に天皇側が奇襲を仕掛けた事件である。<br />
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乱の原因<br />
1141年、鳥羽法皇は崇徳天皇を退位させ、美福門院の子の躰仁親王（崇徳上皇の弟）を即位させた（近衛天皇）。崇徳天皇は鳥羽法皇の子とされていたが、実は鳥羽法皇の祖父白河法皇の子だとする風説が流布されており、鳥羽法皇は崇徳天皇を「叔父子」と呼んで忌み嫌っていたとされている。しかし、これは『古事談』のみの記述であり、信憑性を疑問視する学説もある。<br />
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1155年に近衛天皇が崩御すると崇徳上皇は御子の重仁親王の即位を望むが、父・鳥羽法皇は美福門院や近臣の信西の推す雅仁親王（崇徳上皇のもう一人の弟）を後白河天皇として即位させてしまう。崇徳上皇は深くこれを怨んだ。摂関家でも関白藤原忠通と左大臣藤原頼長の兄弟が争い、忠通は後白河天皇に、頼長は崇徳上皇に接近した。<br />
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崇徳上皇と後白河天皇の対立は深まり、両派はそれぞれ武士を集める。上皇方には源為義、源頼賢、源為朝、源頼憲(多田頼憲)、平忠正らが、天皇方には、源義朝、平清盛、源頼政、源義康(足利義康)らが味方する。兵力的には天皇方が優勢であった。<br />
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1156年7月2日、鳥羽法皇が崩御すると、両派の衝突は不可避の情勢となった。<br />
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合戦の経過<br />
7月6日、宇治の警護にあたっていた平基盛（清盛の次男）が、上皇方に参陣しようとしていた大和源氏の源親治(宇野親治)を捕える。<br />
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1156年7月10日、両軍は賀茂川を挟んで対峙、上皇方は白河北殿、天皇方は東三条殿に本陣を置き、後白河天皇は高松殿にあった。上皇方では為朝が高松殿を夜討して天皇を奪うことを献策したが、頼長が皇位をかけた戦いは白昼堂々と行うものだとしてこれを退けた。（愚管抄では為義が先手を打って内裏を占領するなど三策を献策したことになっている。）一方、天皇方の軍議では義朝が夜討を献策してこれが容れられる。<br />
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7月11日未明、天皇方は清盛300余騎、義朝200余騎、義康100余騎の3隊に分かれて白河北殿を奇襲。清盛が為朝の守る西門を攻めるが、為朝の強弓の前に打ち負かされる。代わって義朝が西門を攻めるも、これまた為朝の強弓に撃退される。天皇方は頼政、源重成、平信兼らの軍兵を投入するが、上皇方は各門で奮戦して激闘が続く。<br />
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義朝は後白河天皇に火攻の勅許を求め、これが許されると天皇方は白河北殿の西隣にある藤原家成邸に放火、火が燃え移ったため上皇方の兵は先を争って白河北殿から逃走。戦闘は終結する。<br />
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戦後<br />
上皇方の頼長は討死、為義、忠正ら主要武将は六条河原にて打首にされた。また、崇徳上皇も讃岐に流され、京に帰れぬまま不遇の最期を遂げた。為朝は逃れたが、後に捕まり、自慢の弓を射ることができないよう、左腕の筋を抜かれてから伊豆大島に流されたと言われている。<br />
<br />
こうして後白河天皇は反対派の排除に成功した。しかし、宮廷の対立が戦闘によって解決したこと、とりわけ京都市街を戦場とし、数百年ぶりに死刑が執行されたことは、当時の人々に大きな衝撃を与え、貴族から庶民まで武士の力を強く印象づけることとなった。鎌倉時代の歴史書『愚管抄』は、この乱が「武者ノ世」の始まりであり、歴史の転換点だったと論じている。<br />
<br />
この乱は、3年後の平治の乱の遠因ともなり、さらには日本最初の武士政権である平氏政権の成立、また関東武士団を基盤とする鎌倉幕府の成立をもたらすこととなる。<br />
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■1159年<br />
平治の乱がおこる<br />
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【平治の乱（へいじのらん）】<br />
出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』<br />
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平治の乱（へいじのらん）は平安時代の平治元年12月9日（1159年1月19日）より発生した、院の近臣らの対立により起きた政変である。<br />
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乱の原因<br />
文中の（　）の年はユリウス暦、月日は西暦部分を除き全て和暦、宣明暦の長暦による。 <br />
1156年の保元の乱に勝利した後白河天皇は、同年閏9月に『保元新制』と呼ばれる代替わり新制を発令した。この新制は、第1条に「九州の地は一人の有なり。王命の外、何ぞ私威を施さん。」と王土思想を強く宣言し、荘園整理令を含むものだった。この荘園整理令は、全国の荘園・公領を天皇の統治下に置くことを意図しており、これにより荘園公領制の成立へ大きく進むこととなった。翌年にも後白河は35箇条の新制を発布しているが、こうした一連の政策展開は、後白河の側近である藤原通憲（信西）が立案・推進したものだった。<br />
<br />
権威の確立に努めた後白河は、1158年に実子の二条天皇へ譲位し、自らは治天の君となって院政を開始した。しかし、二条天皇は若くして英君との評価が高く、少なくない貴族らが二条へ接近していき、宮廷は内部分裂の様相を呈した。<br />
<br />
後白河院政を後見した信西は、平清盛と結んで院政を支える武力とし、院政の安定を図った。信西は宮廷随一の教養高い人物だったが、他者への評価が非常に厳しく、主君である後白河を「暗主」と呼んだことさえあった（ただし、これは後白河上皇の父であった亡き鳥羽法皇ら宮廷人の多くが似たような見解を抱き、二条天皇側についた廷臣もこうした視点に立つものであった）。当時、後白河の乳母の甥に当たる藤原信頼が院近臣として台頭しつつあり、ある時右近衛大将の官職を望んだが、その人物を見た信西は信頼の申し出を一蹴した。これにより、信西との対立を深めた信頼は、藤原成親、源師仲らと結んで、藤原経宗、藤原惟方ら二条天皇派と連携していった。さらに、後白河院政へ不満を持つ源義朝を自派の武力として傘下へ引き入れることに成功した。<br />
<br />
平治1年（1159年）後半になると、特に院の近臣である信西派・信頼派間の緊張関係が高まっていき更に第3勢力である二条天皇派も絡んで、同年12月にその緊張が限界を迎えた。<br />
<br />
<br />
乱の経過<br />
信西派の武力を担当する平清盛が熊野参詣へ出発した直後の旧暦12月9日、藤原信頼・源義朝一派は二条天皇派の了解を得た上で、三条殿御所を襲撃して二条天皇を確保、さらに院御所へ押し寄せ、後白河上皇の確保にも成功した。この事態に信西は逃亡し、山城国宇治太原から伊賀国の堺の田原の山中に隠れていたが、ほどなく捕えられ殺害された。<br />
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政権を掌握した信頼・義朝らは勝手に除目を行い、信頼は右近衛大将、義朝は播磨守になり、自派の貴族へも官位を濫発した。その最中、東国より兵を率いて馳せ上った義朝の長男義平は直ちに清盛の帰路を討ち取るよう主張したが、信頼はその必要はないと退け、清盛の帰洛まで空しく時間を浪費することとなる。<br />
<br />
同月17日、帰京して六波羅の館に入った清盛は信頼に名簿（みょうぶ）を差し出して降伏を装って油断を誘い、その隙に経宗と惟方を調略した。そして、25日夜、清盛方が二条大宮に火を放ち注意を引き付けているうちに、経宗と惟方は後白河と二条を内裏から脱出させた。二条は六波羅に迎えられ、後白河は仁和寺に入った。<br />
<br />
翌26日、清盛に信頼・義朝追討の宣旨が下された。清盛の嫡男重盛、弟の頼盛、経盛が3000騎を率いて内裏へ向かった。源氏方は2000騎の軍勢で、信頼が待賢門、義朝が郁方門、源光保、源光基らが陽明門を守った。<br />
<br />
重盛が待賢門に迫ると怯えた信頼は逃げ出してしまう。代わって義平が防戦に出て激闘になり、御所の右近の橘、左近の桜の間を7回も重盛を追い回した。この時、源義平19歳、平重盛23歳、源平の若き御曹司同士の白熱した戦いは『平治物語』のハイライトの一つとされる。数刻後、重盛は退却し、義朝が守る郁方門を攻めていた頼盛も撃退される。<br />
<br />
義朝、義平が追撃して内裏を出ると、清盛の弟教盛の軍勢が陽明門に迫り、光保、光基は門の守りを放棄して寝返ってしまった。教盛は内裏に入り門を固めてしまう。退路を断たれた源氏軍は六波羅へ突撃する。だが、臆した信頼は途中で逃げ出した。さらに河内源氏の源義朝とは別の摂津源氏で大内守護の源頼政が独自行動をとり平清盛に与する。平氏軍は六波羅を出撃し、両軍は六条河原で激戦を展開するが、疲労した源氏軍は遂に敗走した。戦いは平氏の勝利に終わる。<br />
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戦後<br />
乱後に藤原信頼は斬首され、義朝は戦線離脱し、東国へ落ち延びる途中、尾張国内海荘（愛知県）で長田忠致に殺害された。嫡子の源義平は都に戻り、やはり都に潜伏して生き延びていた義朝の郎党の志内景澄と共に密かに清盛暗殺の機会を狙うが、密告により捕縛され殺される。源義隆、源重成、源季実ら義朝に従った武将達も死を免れず、義朝の三男頼朝など生き延びた河内源氏一族の一部も、京都を駆逐され全国に雌伏することになる。<br />
<br />
しかしこうした個々人の命運以上に、平治の乱はその後の政治史に対して大きな影響をもたらした。乱終結の翌月、二条天皇は故近衛天皇の后だった藤原多子を急遽、后へ迎えることとした。これにより二条は、近衛の跡を継ぐ皇位継承者であることを示し、乱後の混乱の中で自らの正統性を主張した。後白河は二条の婚姻に不快感を見せ、両者の確執は深まっていった。この状況下で、平清盛は上皇を侮辱した罪で天皇側近の藤原経宗・惟方を流罪にする一方、後白河院政の停止と天皇親政を支持するなど上皇・天皇の片側のみに与することなく、慎重な立場を取った。乱勝利の最大の貢献者である清盛は、1160年、参議に任命され、武士で初めて公卿（議政官）の地位に就いた。清盛は、これを足掛かりとして、また上皇と天皇を両天秤にかけながら、急速に昇進していき、平氏政権を形成していったのである<br />
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]]></content></entry><entry><title>日本の歴史年表(日本史)【平安時代】?</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://nihonnorekishi.il-o-l.com/?eid=449958" /><id>http://nihonnorekishi.il-o-l.com/?eid=449958</id><issued>2007-01-11T13:50:00+09:00</issued><modified>2007-01-11T04:50:01Z</modified><created>2007-01-11T04:50:00Z</created><summary>日本の歴史年表(日本史)【平安時代】?

■1051年
前九年の役（ぜんくねんのえき）がおこる

【前九年の役（ぜんくねんのえき）】
出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』


経緯
この戦役は、源頼義の奥州赴任（1051年）から安倍氏滅亡（1062年）までに要した年数から...</summary><author><name>nihonnorekishi</name></author><dc:subject>日本の歴史年表(日本史)【平安時代】</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[日本の歴史年表(日本史)【平安時代】?<br />
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■1051年<br />
前九年の役（ぜんくねんのえき）がおこる<br />
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【前九年の役（ぜんくねんのえき）】<br />
出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』<br />
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経緯<br />
この戦役は、源頼義の奥州赴任（1051年）から安倍氏滅亡（1062年）までに要した年数から奥州十二年合戦と呼ばれていたが、後に、「後三年の役（1083年-1087年）と合わせた名称」と誤解されるため、前九年の役と呼ばれるようになった。源頼義の嫡子義家が敗走する官軍を助け活躍した戦いとしても知られる。<br />
<br />
東北地方から北海道にかけて存在した蝦夷のうち朝廷に帰服した陸奥俘囚の長であった安倍氏は、陸奥国の奥六郡（岩手県北上川流域）に柵（城砦）を築いて独立的な族長勢力を形成していたが、安倍頼良が陸奥国司藤原登任と玉造郡鬼切部で対立し戦闘が始まる。秋田城介平重成も国司軍に応援をしたが、安倍軍を鎮圧できなかった。朝廷は源氏の一族の源頼義を陸奥守として赴任させ、事態の収拾を図るが、1051年には朝廷は後冷泉天皇生母（藤原道長息女中宮藤原彰子）の病気祈願のために安倍氏に対しても恩赦をだし、頼良は頼義と同音を遠慮して名を頼時と改めるなど従順な態度をとり帰服する。頼義方の武将である藤原経清、平永衡は頼時の女婿となる。<br />
<br />
1053年に鎮守府将軍となった頼義は安倍氏に対して挑発を行い、1056年に頼時の子である貞任（さだとう）が頼義方の陣営を襲撃した(阿久利川事件)容疑をかけ、その引渡しを要求するや安倍氏は蜂起し、胆沢城に赴いた鎮守府将軍・頼義を攻め、戦いを優位に進める。藤原経清も安倍氏に加勢。頼義は安倍氏を挟撃するため、配下の気仙郡司金為時を使者として、安倍富忠ら津軽の俘囚を調略し、味方に引き入れることに成功する。これに慌てた頼時は、富忠らを思いとどまらせようと自ら津軽に向かうが、富忠の伏兵に攻撃を受け、横死してしまう。<br />
<br />
天喜5年（1057年）11月、これを好機と見た頼義は一気に安倍氏を滅ぼそうと、黄海（きふみ）で決戦を挑むが、逆に頼時の遺児で跡を継いだ貞任らに大敗してしまう。またこの時、長男義家を含むわずか七騎でからくも戦線を離脱する、という有様であった（黄海の戦い）。この敗戦が影響し、頼義が自軍の勢力回復を待つ間、安倍氏はさらに専横の度を深め、その勢いは衰えなかった。<br />
<br />
康平5年（1062年）春、苦戦を強いられた源頼義は中立を保っていた出羽国仙北（秋田県）の俘囚の豪族清原氏の族長清原光頼に参戦を依頼した。これを聞き入れた光頼が7月に弟武則を総大将とした大軍を派遣した。陣は七陣であり、構成は、<br />
<br />
第一陣、武則の子である荒川太郎武貞率いる総大将軍。第二陣、武則の甥で秋田郡男鹿（現男鹿市）（山本郡島、現大仙市強首との説もある）の豪族志万太郎橘貞頼率いる軍。第三陣、武則の甥で娘婿である山本郡荒川（現大仙市協和）の豪族荒川太郎吉彦秀武率いる軍。第四陣、貞頼の弟新方次郎橘頼貞率いる軍。第五陣、将軍頼義率いる軍、陸奥官人率いる軍、総大将武則率いる軍。第六陣、吉彦秀武の弟といわれる斑目四郎吉美候武忠率いる軍。第七陣、雄勝郡貝沢（現羽後町）の豪族貝沢三郎清原武道率いる軍。<br />
<br />
以上1万人で、うち源頼義率いる朝廷軍は3千人であった。<br />
<br />
形勢は逆転し、安倍氏の拠点である厨川柵（岩手県盛岡市天昌寺町）、嫗戸柵（盛岡市安倍館町）が陥落。貞任は戦死、経清は処刑され、安倍氏は滅亡し同年9月17日に戦役は終結した。<br />
<br />
前九年の役後、貞任の弟安倍宗任らは伊予国のちに筑前国の宗像に流され、このことは平家物語にも記述が見える。清原武則はこの戦功により朝廷から従五位下鎮守府将軍に補任され、奥六郡を与えられ、清原氏が奥羽の覇者となった。藤原経清の妻であった安倍頼時の息女は敵の清原武貞の妻となり、藤原経清の遺児（後の藤原清衡。奥州藤原氏の祖）共々清原氏に引き取られたが、このことが、後の後三年の役の伏線となる。<br />
<br />
なお、本役の性格について、今昔物語集第31巻第11『陸奥国の安倍頼時胡国へ行きて空しく返ること』等を踏まえ、蝦夷の反乱に同調しようとしたとの嫌疑を頼義から受けたことに伴うものとの蝦夷側に立った見解が近年出されている。<br />
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■1053年<br />
藤原頼道（ふじわらよりみち）が平等院鳳凰堂（びょうどういんほうおうどう）を作る<br />
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【平等院鳳凰堂（びょうどういんほうおうどう）】<br />
出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』<br />
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日本の10円硬貨。表に平等院鳳凰堂がデザインされている平等院（びょうどういん）は、京都府宇治市にある藤原氏ゆかりの寺院。平安時代後期・11世紀の建築、仏像、絵画、庭園などを今日に伝え、「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。山号を朝日山と称する。宗派は17世紀以来浄土宗と天台宗を兼ね、現在は特定の宗派に属さない単立の仏教寺院となっている。本尊は阿弥陀如来、開基（創立者）は藤原頼通、開山（初代住職）は明尊である。<br />
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起源と歴史<br />
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平等院の創建<br />
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鳳凰堂（正面）京都南郊の宇治の地は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から貴族の別荘が営まれていた。現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルとも言われる左大臣である嵯峨源氏の源融（みなもと・の・とおる）が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信を経て長徳4年（998年）、関白藤原道長の別荘「宇治殿」となったものである。道長は万寿4年（1027年）没し、その子の関白藤原頼通は永承7年（1052年）、宇治殿を寺に改めた。これが平等院の始まりである。創建時の本堂は、鳳凰堂の北方、宇治川の岸辺近くにあり大日如来を本尊としていたが、翌天喜元年（1053）には、西方極楽浄土をこの世に出現させたような阿弥陀堂（現・鳳凰堂）が建立された。<br />
<br />
平安時代後期、日本では「末法思想」が広く信じられていた。釈尊の入滅（一般で言う「死去」）から2,000年目以降は、仏法がすたれ、天災人災が続き、世の中は乱れるとする思想である。平等院が創建された永承7年（1052年）は、当時の思想ではまさに「末法」の元年に当たっていた。<br />
<br />
平安時代後期の京都では、平等院以外にも皇族・貴族による大規模寺院の建設が相次いでいた。藤原道長は寛仁4年（1020年）、無量寿院（のちの法成寺）を建立、また11世紀後半から12世紀にかけては白河天皇勅願の法勝寺を筆頭に、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺のいわゆる「六勝寺」が今の京都市左京区岡崎あたりに相次いで建立された。しかし、歴史書に名をとどめるこれらの大伽藍も今は跡形もなく、平安時代の貴族が建立した寺院が建物、仏像、壁画、庭園まで含めて残存するという点で、平等院はかけがえのない存在となっている。<br />
<br />
平等院には、鳳凰堂以外にも以下のような堂塔が建ち並んでいた。<br />
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法華堂−天喜4年（1056年）、頼通によって建立。今の平等院ミュージアム付近にあった。 <br />
多宝塔−康平4年（1061年）、頼通の娘の四条宮寛子（かんし）によって建立。鳳凰堂の南東方向の宇治川べりにあった。 <br />
五大堂−治暦2年（1066年）、右大臣藤原師実（頼通三男）によって建立。鳳凰堂背後の浄土院付近にあった。 <br />
不動堂−延久5年（1073年）、右大臣源師房（頼通養子）によって建立。鳳凰堂の南西方にあった。 <br />
建武3年（1336年）の楠木正成と足利氏の軍勢の戦いの兵火をはじめ、度重なる災害により上記の堂塔は廃絶し、鳳凰堂のみが奇跡的に災害をまぬがれて存続している。<br />
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鳳凰堂（国宝）<br />
−天喜元年（1053年）の建立。浄土式庭園の池の中島に東向きに建つ。本尊阿弥陀如来像を安置する中堂（ちゅうどう）、左右の翼廊、中堂背後の尾廊の計4棟が「平等院鳳凰堂」として国宝に指定されている。中堂は入母屋造、裳階（もこし）付き。東側正面中央の扉を開放すると、建物外からも本尊阿弥陀如来の顔が拝めるようになっている。阿弥陀如来の住する極楽浄土は西方にあると信じられており、池の東岸（あるいは寺の前を流れる宇治川の東岸）から、向かい岸（彼岸）の阿弥陀像を拝するように意図されていたと思われる。中堂の屋根上には1対の鳳凰（想像上の鳥）像が据えられているが、現在屋根上にあるのは複製で、本物（国宝）は取り外して別途保管されている。本尊阿弥陀如来像（国宝）は仏師定朝の確証ある唯一の遺作。本尊を安置する須弥壇は螺鈿（らでん）や飾金具で装飾され、周囲の扉や壁は極彩色の絵画で飾られ、天井や柱にも彩色文様が施されていた。長押（なげし）上の壁には楽器を奏で、舞いを舞う姿の供養菩薩像の浮き彫り（現存52体）があり、本尊の頭上には精巧な透かし彫りの天蓋（てんがい）を吊る。現在、壁画は剥落が激しく、柱や天井の装飾は色あせ、須弥壇の螺鈿は脱落しているが、創建当時の堂内は、当時の貴族が思い描いた極楽のイメージを再現した、華麗なものであったと思われる。なお、「鳳凰堂」の呼称は江戸時代からで、当初は「阿弥陀堂」あるいは単に「御堂」と呼ばれていた。<br />
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■1083年<br />
後三年の役（ごさんねんのえき）がおこる<br />
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【後三年の役（ごさんねんのえき）】<br />
出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』<br />
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後三年の役（ごさんねんのえき）は、平安時代後期の奥州（東北地方）を舞台とした戦役である。<br />
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経緯<br />
清原氏の当主清原武貞には、嫡子真衡がいたが、武貞は前九年の役後、処刑された藤原経清の未亡人（安倍頼時の女）を妻とし、その連れ子（後の清衡）を養った。その後、家衡が生まれた。<br />
<br />
武貞の死後、清原氏は真衡が嗣いだが、真衡には子がなかったため海道平氏（岩城氏）から養子を迎えた（成衡）。<br />
この成衡に源氏から嫁を迎えることとなり、その婚礼の際、陸奥の真衡の館に出羽から前九年の役の功労者で清原一族長老である吉彦秀武が大杯の砂金を持って祝いに駆けつけた。しかし、真衡は碁に夢中になっており、秀武を無視し、長い間待たされた秀武は普段より一族衆をないがしろにする真衡へ不満が爆発し、砂金を庭にぶちまけて出羽に帰ってしまった。<br />
真衡はこれを聞いて直ちに秀武討伐の軍を起こすが、秀武は同じく真衡と不仲であった清衡と家衡を誘い、二人に真衡の館を襲わせた。しかし、真衡の応援に陸奥守源義家が来ると知った二人は降伏し、残るは秀武だけとなった。ところが真衡は秀武討伐の途中で急死し、いったん戦役は終了した。<br />
真衡と秀武の確執の原因は、真衡が、源氏や平氏のような武士団として、棟梁の権限を強めようとする当時の流れに乗ろうとしたのに対し、吉彦秀武が、前九年の役の頃のように一族共同運営を理想とする考えを持っていたからだともいわれる。<br />
<br />
真衡の死後、陸奥守源義家が、清衡と家衡に奥六郡を3郡ずつ分与する裁定をした（清衡に和賀郡、江刺郡、胆沢郡。家衡に岩手郡、紫波郡、稗貫郡との説が有力。清衡の割り当てられた3郡の方が条件が良い）が、家衡はこの裁定を不満とし、清衡を攻撃した。<br />
清衡の妻子一族はすべて殺されるも清衡自身は生き残り、源義家の協力を得て家衡に反撃したが、沼の柵（秋田県横手市雄物川町沼館）に籠もった家衡がこれを退けると、武貞の弟である清原武衡がこの報を聞いて家衡側に駆けつけ、家衡が義家に勝ったのは武門の誉れとして喜び、難攻不落といわれる金沢柵（横手市金沢中野）に移ることを勧めた。<br />
金沢柵に入った家衡・武衡軍と義家・清衡軍は再び戦闘を開始し、途中に「雁行の乱れ」、「鎌倉権五郎景正の奮戦」などのエピソードが生まれ、義家のもとに弟源義光が援軍に来るなどの動きがあったが（後年、源平合戦の際、義家の玄孫に当たる源頼朝は、弟義経が援軍に来たときに、この故事になぞらえて喜んだという。）、戦況は一進一退だった。そこで、義家方に加わっていた秀武は兵糧攻めを提案し（記録に残る日本最古の兵糧攻めである。）、これを実行したところ効果が次第に現れ、兵糧の尽きた家衡・武衡軍は金沢柵に火を付けて敗走した。<br />
武衡は近くの蛭藻沼（横手市杉沢）に潜んでいるところを捕らえられ斬首され、家衡は下人に身をやつして逃亡を図ったが討ち取られ、清原氏は滅亡した。1087年(寛治元年)十二月であった。 真衡の秀武討伐から清原氏の滅亡までが後世「後三年の役」と呼ばれるようになった。<br />
<br />
朝廷は、上記戦役を義家の私戦と認定し、国庫からの恩賞支弁を拒否した。このため義家は、主に関東から出征してきた将士に私財から恩賞を出さざるを得なくなったが、このことが却って関東における源氏の名声を高め、後の頼朝による鎌倉幕府創建の礎となった、といわれる。<br />
<br />
戦役後、清衡は清原氏の旧領すべてを治めることとなり、奥州の覇者となった。清衡は、実父である藤原経清の姓藤原に復し、奥州藤原氏初代となった。<br />
]]></content></entry><entry><title>日本の歴史年表(日本史)【平安時代】?</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://nihonnorekishi.il-o-l.com/?eid=447310" /><id>http://nihonnorekishi.il-o-l.com/?eid=447310</id><issued>2007-01-07T16:31:44+09:00</issued><modified>2007-01-07T07:31:45Z</modified><created>2007-01-07T07:31:44Z</created><summary>日本の歴史年表(日本史)【平安時代】?

■939年
藤原純友（ふじわらのすみとも）の乱

【藤原純友（ふじわらのすみとも ）】
出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』

藤原 純友（ふじわら の すみとも、昌泰2年（899年）? - 天慶4年6月20日（941年7月21日））は、...</summary><author><name>nihonnorekishi</name></author><dc:subject>日本の歴史年表(日本史)【平安時代】</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[日本の歴史年表(日本史)【平安時代】?<br />
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■939年<br />
藤原純友（ふじわらのすみとも）の乱<br />
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【藤原純友（ふじわらのすみとも ）】<br />
出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』<br />
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藤原 純友（ふじわら の すみとも、昌泰2年（899年）? - 天慶4年6月20日（941年7月21日））は、平安時代の中級公家。祖父は藤原遠経。父は藤原良範。弟に藤原純乗。<br />
<br />
瀬戸内で朝廷に対し反乱を起こしたことで知られる。純友の乱は関東で平将門が起こした乱と併せて承平天慶の乱と呼ばれる。<br />
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藤原氏の中でもっとも栄えた藤原北家の出身で大叔父には藤原基経がいるが、早くに父を失い、都での出世は望むべくも無く地方官となる。<br />
当初は伊予掾として、瀬戸内に跋扈する海賊を鎮圧する側にあったが、承平6年（936年）頃までには海賊の棟梁となり伊予（愛媛県）の日振島を根城として周辺の海域を荒らしやがて内海全域に勢力をのばした。関東で平将門が乱を起こした頃とほぼ時を同じくして瀬戸内の海賊を率いて乱を起こす。<br />
<br />
朝廷は純友追討のために追捕使長官小野好古、追捕使主典大蔵春実による兵を向け、大宰府をめぐる戦いで弟の藤原純乗が筑後国蒲池で大宰権帥の橘公頼に敗れ、天慶3年（940年）純友は伊予国警固使橘遠保により捕らえられ、獄中で没した。<br />
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将門の乱がわずか2ヶ月で平定されたのに対し、純友の乱は2年に及んだ。<br />
<br />
九州には肥前国の有馬氏、大村氏など藤原純友の子孫と伝える大名家があり、また、原田氏や秋月氏、田尻氏など大蔵春実の子孫も多く、筑後国の蒲池氏もまた藤原純友の後裔とする伝承があるが、繋がりがあるのは橘公頼とされる。<br />
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■1016年<br />
藤原道長（ふじわらのみちなが）が摂政となる<br />
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【藤原道長（ふじわらのみちなが）】<br />
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』<br />
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時代 平安時代 <br />
生誕 康保3年(966年) <br />
死没 万寿4年12月4日(1028年1月3日) <br />
改名 行観、行覚 <br />
別名 御堂関白、法成寺入道前関白太政大臣 <br />
官位 従五位下、侍従、右兵衛権佐、従五位上、蔵人<br />
正五位下、少納言、左近衛少将、従四位下<br />
従四位上、讃岐権守、備前権守、左京大夫<br />
従三位、権中納言、右衛門督、正三位、中宮大夫<br />
権大納言、従二位、左近衛大将、内覧、右大臣<br />
氏長者、正二位、左大臣、辞左近衛大将、准摂政<br />
摂政、従一位、停摂政、太政大臣、准三后 <br />
主君 円融天皇、花山天皇、一条天皇<br />
三条天皇、後一条天皇 <br />
氏族 藤原氏、藤原北家、摂関家 <br />
父母 藤原兼家、藤原時姫 <br />
兄弟 道隆、道綱、道兼、道長、超子、東三条院 <br />
妻 鷹司殿、高松殿、藤原儼子、源重光娘? <br />
子 上東門院、頼通、頼宗、妍子、顕信、能信、教通<br />
威子、寛子、長家、嬉子、尊子、長信、盛子 <br />
特記<br />
事項 従五位下への任官を元服とみなし、<br />
主君は元服時の天皇からとしている。 <br />
藤原 道長（ふじわらの みちなが、康保3年（966年） - 万寿4年12月4日（1028年1月3日））は、平安時代の貴族、廷臣。<br />
<br />
後一条天皇の摂政・太政大臣。摂政・関白・太政大臣兼家の五男（四男という説もある）で、母は摂津守藤原中正の娘・贈正一位時姫。同母の兄姉に摂政・関白道隆・関白道兼・超子（三条天皇生母）・詮子（一条天皇生母）らがいる。異腹の兄弟姉妹として、傅大納言道綱・僧正兼俊および綏子（三条天皇東宮妃）らがいる。<br />
<br />
生涯<br />
天元三年（980年）正月、十五歳にして従五位下に初叙。侍従・右兵衛権佐を経て、寛和二年（986年）6月、姉詮子の生んだ東宮懐仁親王（一条天皇）を皇位に就かせるべく、父兼家が仕組んだ謀略に加担し、花山天皇失踪のことを関白藤原頼忠に報告する。兼家が摂政に任じてからは急速に昇進し、永延二年（988年）正月、参議を経ずに権中納言に就任。これ以前より左大臣源雅信の娘源倫子と結婚し、永延二年には長女彰子が雅信の土御門殿で誕生している。続いて故源高明の娘源明子と婚する。正暦元年（990年）10月、摂政道隆の女定子立后に際し、中宮大夫に任ぜられる。翌年権大納言、ついで従二位。<br />
<br />
長徳元年（995年）4月、兄道隆・道兼が当時猛威を振るった赤斑瘡（「あかもがさ」今でいう「はしか」）のために相次いで没すると、道隆の子である内大臣伊周と執権をめぐって激しく争ったが、姉にあたる時の皇太后詮子の強力な後援を受けて勝利した。同年5月には内覧の宣旨を受け、右大臣となった。翌長徳二年（996年）4月24日、甥の伊周・隆家兄弟を政変で追い落として（長徳の変）、7月には左大臣に昇進し名実ともに廟堂びょうどうの第一人者となった。<br />
<br />
後に法成寺を建立したことから御堂関白とも呼ばれるが、実際に関白になったことはない。関白の職権そのものには決裁権がなく、あくまでも最高決裁権者である天皇の後見的存在であった。このため、天皇との関係次第によってその権限は左右される性質のものであった（現に道長と三条天皇とは疎遠であった）。また公式な政府の最高機関である太政官には摂政・関白は大臣兼任であったとしても関与出来ない決まりであった。そこで、道長は自らの孫が天皇に即位して外祖父となるまでは摂政・関白には就かず、太政官の事実上の首席である左大臣と関白に近い権限を持つ内覧を兼任することによって最高権力を行使しようとしたのである。<br />
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長保元年（999年）11月、一条天皇のもとへ長女・彰子を入内させ、翌年2月になって中宮とした。先立の后に定子がおり、すでに第一皇子を生み帝寵も深かったが、道長はあえて一帝二后を遂行させた。これに際しては、藤原行成の論理武装[1]による手助けがあったとされる。<br />
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寛弘五年（1008年）9月、入内後十年目にして彰子は道長の土御門殿において皇子敦成親王（のちの後一条天皇）を出産し、翌年にはさらに年子の敦良親王（後の後朱雀天皇）も生まれた。待望の孫皇子が誕生した時の道長の狂喜ぶりは『紫式部日記』に詳しい。<br />
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寛弘八年6月、病床に臥した一条天皇を譲位させ、次に即位した三条天皇の皇太子に四歳の外孫敦成親王を立てた。長和元年（1012年）2月、三条天皇に入内させていた次女の妍子を中宮とした。道長は続けて内覧に留任し、三条天皇とも叔父・甥の関係にあったが、早くに母后を失い、成人してから即位した天皇と道長の連帯意識は薄く、天皇は親政を望んだ。二人の期待に反して妍子が女子（禎子内親王）を生んだこともあり、天皇との関係は次第に悪化していった。道長は天皇の眼病を口実に強く退位を迫り、同長和六年正月、彰子の生んだ後一条天皇が即位すると、その摂政となった。翌寛仁元年（1017年）、摂政を嫡男の頼通に譲り、左大臣から太政大臣に任ぜられた。しかし、それもすぐに辞して、同三年3月には出家する。<br />
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寛仁二年（1018年）、後一条天皇が11歳になった時、道長は三女の威子を入内させ中宮とした。道長の批判者藤原実資は、その日記『小右記』に、「一家立三后、未曾有なり」と感嘆の言葉を記した。威子の立后の日に、道長の邸宅で酒宴が開かれ、道長は実資に向かって、即興の歌「この世をばわが世とぞ思ふ　望月の欠けたることもなしと思へば」を詠んだという（『小右記』、原文漢文）。また道長の末女嬉子も将来の皇后となるべく、東宮敦良親王（後一条天皇の同母弟）に尚侍として侍したが、嬉子は親仁親王（のちの後冷泉天皇、摂関期最後の天皇）を生んで万寿二年（1025年）に早世した。<br />
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晩年は壮大な法成寺を建立してそこに居住していたが、多くの子供たちに先立たれ、病気がちで安らかとはいえなかった。万寿四年（1027年）12月4日、病没。病名ははっきりとは分かっていないが、記録から癌又は糖尿病ではないかといわれている。また一説にはハンセン病であったという説もある。道長は藤原北家の全盛期を築き、摂関政治の崩壊後も彼の子孫のみが摂関職を代々世襲し、本流から五摂家と、九清華のうち三家（花山院・大炊御門・醍醐）を輩出した。<br />
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人物<br />
文学を愛好した道長は紫式部・和泉式部などの女流文学者を庇護し、内裏の作文会に出席するばかりでなく自邸でも作文会や歌合を催したりした。『源氏物語』の第一読者であり、紫式部の局にやってきてはいつも原稿の催促をしていたといわれている（自分をモデルとした策略家の貴族が登場していることからそれを楽しみにしていたとも言われる）。家集『御堂関白集』を残し、自ら拾遺以下の勅撰歌人でもある。もっとも道長本人は和歌より漢詩の方を得手としていたようである（ちなみに有名な「この世をば」の歌は本人も即興で作った歌であったために気に入らなかったとされ、『御堂関白記』などには記載されておらず、政敵・藤原実資の『小右記』に伝えられている）。また、政治家としては估価法の整備などの物価対策などにも取り組んだ（道長や実資が死ぬと公卿が社会政策に取り組む事はなくなり、院政や武家政権に政治の実権を奪われる遠因となる）。ちなみに頭が薄かったらしい。また、仏教とくに浄土教に対して信仰心が厚く、最期は自らが建てた法成寺阿弥陀堂本尊前で大勢の僧侶に囲まれ極楽浄土を祈願する儀式の中で臨終の時を迎えたとされる。<br />
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■806年
空海（くうかい）が真言宗（しんごんしゅう）を開く」

【真言宗（しんごんしゅう）】
出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』

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■806年<br />
空海（くうかい）が真言宗（しんごんしゅう）を開く」<br />
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【真言宗（しんごんしゅう）】<br />
出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』<br />
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真言宗（しんごんしゅう）は、空海（弘法大師）によって9世紀初頭に開かれた、日本の仏教の宗派。真言陀羅尼宗（しんごんだらにしゅう）、曼荼羅宗（まんだらしゅう）、秘密宗（ひみつしゅう）とも称する。空海が中国（唐時代）の長安に渡り、青龍寺で恵果から学んだ密教を基盤としている。同時期に最澄によって開かれた日本の天台宗が法華経学、密教、戒律、禅を兼修するのに対し、空海は著作「秘密曼荼羅十住心論」（ひみつまんだらじゅうじゅうしんろん）、「秘蔵宝鑰」（ひぞうほうやく）で、顕教と比べて、密教（真言密教）の優位性を説き、真言宗は真言密教専修であり、真言密教を最上位に置いた。天台密教を「台密」と称するのに対し、真言密教を「東密」と称する。<br />
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歴史<br />
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開宗<br />
空海は、816年（弘仁7年）に高野山金剛峯寺を修禅の道場として開創し、弘仁14年（823年）に勅賜された教王護国寺（東寺）を真言宗の根本道場として宗団を確立した。<br />
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空海入定後<br />
空海は入定に際して、住持していた寺院を弟子に付嘱した。東寺は実慧、金剛峯寺は真然、神護寺は真済、安祥寺を恵運、寛平法皇（宇多天皇）が開基した仁和寺、醍醐寺（聖宝）、円成寺（益信）などとした。これらの寺院に年分度者（ねんぶんどしゃ）（国家公認の僧侶の養成）を許可され、それぞれの寺院が独立した傾向を持っていった。<br />
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本末争い（東寺と高野山）<br />
観賢が東寺長者・金剛峯寺座主を兼ね、東寺を本寺とし、金剛峯寺を末寺とする本末制度を確立した。東寺長者が真言宗を統括することになった。金剛峯寺は、この本末争いに負けた後、落雷により伽藍・諸堂を焼失した。また国司による押妨などにより、高野山は衰微し、無人の状態になるまでに至った。この状態が平安時代中期まで続くが、藤原道長が高野山に登山（山上の寺社に参詣すること）したことにより復興が進み、皇族・摂関家・公家が高野山への登山が続いた。また、皇族・摂関家・公家などによる経済的な支援もあり、財政においても安定した。<br />
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■866年<br />
藤原良房が摂政となる<br />
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【藤原良房（ふじわらのよしふさ）】<br />
出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』<br />
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藤原 良房（ふじわらの よしふさ　延暦23年（804年） - 貞観14年9月2日（872年10月11日））は、平安時代の貴族、廷臣、公卿。人臣最初の摂政。染殿、白河殿と称される。<br />
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藤原北家の藤原冬嗣の二男として生まれる。嵯峨天皇の皇女源潔姫を妻とし、妹の順子を女御として権勢を振るう。承和9年（842年）、順子所生の道康親王を皇太子に立てるため、承和の変を仕組んで皇太子恒貞親王を廃することに成功した。承和11年（844年）、道康親王が文徳天皇として即位するに及び自分の娘明子（あきらけいこ）を女御として配し、自らは人臣最初の太政大臣となった。さらに文徳天皇の後、惟喬親王を退け、明子の産んだ惟仁親王を9歳で即位させ清和天皇とした。良房は天皇の外祖父として人臣最初の摂政の座についた。また、貞観8年（866年）、応天門の変では、大納言伴善男を退け、大伴氏の勢力を宮中から駆逐、名実ともに藤原氏の第一人者となり、その後の藤原氏の地位を確立した。良房には嗣子がいなかったため、兄の藤原長良の三男、藤原基経を養子とした。<br />
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■894年<br />
遣唐使が廃止される。（はくし（894）に戻す遣唐使）<br />
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寛平6年（894年） - 派遣中止：菅原道真(大使であったが派遣中止を進言)<br />
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■935年<br />
平将門（たいらのまさかど）の乱<br />
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【平将門（たいらのまさかど）】<br />
出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』<br />
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平将門（たいらのまさかど、延喜3年（903年）? - 天慶3年2月14日（940年3月25日））は、平安時代中期の武将である。正しくは旧字体で平將門であるが、漢字制限（当用漢字、常用漢字、教育漢字）により平将門と表記する。通称は相馬小次郎。<br />
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桓武天皇の子孫で、平氏の姓を授けられた、高望王（たかもちおう）の孫。鎮守府将軍平良将（平良將。たいらのよしまさ）の子。下総国、常陸国に広がった平氏一族の抗争に端を発し、関東諸国の国衙を襲い、国司の金印を奪った事から朝廷から敵と見なされた。新皇を自称し、自立を目指したが藤原秀郷、平貞盛らにより討伐された(承平天慶の乱)。死後は築土神社、神田明神、国王神社等に祀られる。武士の発生を示すとの評価もある。<br />
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生涯<br />
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生い立ちと平氏一族の争い<br />
父の平良将は、下総国佐倉が領地と伝えられ、佐倉市将門と地名も残るが、根拠となる史料は無い。将門は地方より平安京へ出て、藤原北家の氏長者であった藤原忠平と主従関係を結ぶが、父良将が急死したために領国へ戻る。長子相続制度の確立していない当時、良将の遺領は伯父の国香（國香）や良兼に独断で分割されていた。<br />
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『将門記』などによれば、平氏一族の親族争いは、常陸国（茨城県）前国司の源護の娘、或いは良兼の娘